長野県の地域日刊紙「東信ジャーナル」2022年4月12日で紹介されました。

『手塚治虫のルーツは信州上田にあった!令和3年度増補版』が、長野県の地域日刊紙「東信ジャーナル」2022年4月12日発行で紹介されました。
木曽義仲の側近で手塚治虫の先祖の手塚太郎金刺光盛について発信活動をしている「手塚太郎の会」と、上原榮治さんが代表を務める「アトムの会」両方で発刊された冊子についてPRする内容となっております。
拙稿についても以下のように紹介されています。
「大阪府の県外会員で手塚治虫さんについて著書がある田浦紀子さんの寄稿「『アドルフに告ぐ』とその時代」などを掲載。手塚治虫さんの親族からの話や「アドルフに告ぐ」に対する手塚さんの思いなどを考察した読み応えのある内容になっている。」

朝日新聞2018年5月12日 土曜版be みちのものがたり 手塚治虫を育んだみち

5月12日の朝日新聞土曜版beの6~7面「みちものがたり」に、宝塚の手塚治虫ゆかりの地の特集記事が掲載されました!3月に、手塚先生の弟の手塚浩さんとの取材に同行し、旧手塚邸、瓢箪池、蛇神社、千吉稲荷など、宝塚の御殿山界隈をめぐりました。手塚浩さんは少年のような目をして嬉々として「オサム兄貴」との思い出を語って下さいました。

記事では高台から宝塚の街を一望できる場所で撮影した手塚浩さんの写真が掲載されています。メイン写真は、手塚兄弟が「猫神社」と呼んだ千吉稲荷神社。田圃のあぜ道の先にこんもりとした緑の山の中に現れる赤い鳥居がアクセント。
拙著『親友が語る手塚治虫の少年時代』も書影入りで紹介されています。私のコメントとして宝塚時代の影響の作品の代表例「ゼフィルス」を挙げました。「宝塚で育んだ昆虫愛とともにささやかな暮らしが奪われる戦争の不条理が描かれています」
中野晴行さんの著書『手塚治虫のタカラヅカ』の引用とコメント、藤子不二雄Aさん(安孫子素雄さん)の「新寶島」「マアチャンの日記帳」へのコメントも。

実は5月12日は『親友が語る手塚治虫の少年時代』が発売された記念日です。一年前の今日、初めて自分の名前の本が全国の書店に並びました。そして、その発売記念日に朝日新聞に紹介記事が掲載されたのもまた何かのご縁かと思います。

(みちのものがたり)手塚治虫を育んだみち 兵庫県宝塚市 蝶にこがれたマンガの神様
2018年5月12日03時30分

朝日新聞社に無断で転載することを禁じる 承諾番号:18-2363

 

梢(こずえ)の葉を通して、日差しが降り注ぐ。閑静な住宅街が広がる兵庫県宝塚市。その高台に、開発からかろうじて逃れた千吉稲荷神社のこんもりした森が残っている。

「オサム兄貴が小学生のころ『クヌギの樹液に蝶(ちょう)やクワガタがたくさん集まっている』と教えてくれた。昆虫採集にとっておきの場所です」

オサム兄貴とは、後に「マンガの神様」と呼ばれる手塚治虫(1928~89)。思い出の一コマを語るのは弟の浩さん(87)だ。

手塚は4歳から約20年間、宝塚大劇場などを見下ろす御殿山で暮らした。自宅近くには緑豊かな山林や田畑が広がり、兄弟が瓢箪(ひょうたん)池と呼んだ池は水を満々とたたえていた。

「この神社で兄貴は大きな猫をみかけて、猫神社と名付けました。蝶が飛ぶ『蝶道』もあって、珍しい蝶を先に捕まえようと、競争に明け暮れたものです」。喧噪(けんそう)からも逃れた鎮守の森は、遠い日の子どもたちの歓声が聞こえてきそうな、懐かしい場所だった。

手塚が昆虫採集に目覚めたのは小学5年生のとき。級友の石原実さん(89)に『原色千種昆蟲圖譜(こんちゅうずふ)』(平山修次郎著)を見せられたのがきっかけだ。自伝『ぼくはマンガ家』で、手塚はこの図鑑との出会いを「ぼくは、俄然(がぜん)昆虫に魅せられてしまった。やがて三度の食事を一度にしてもというぐらい病みつきになり」と述べ、手元に置く「バイブル」の一冊にしていたという。

自宅の本棚には父親も好きなマンガが200冊並び、空想科学小説や海外文学の本がふんだんに置かれた。浩さんは「そんな環境もマンガを描き、兄貴ならではのストーリーを生み出すバックボーンになったのでしょう」と話す。

教科書やノートの隅にパラパラマンガを描いて遊んでいた手塚は、自作のマンガを回覧して級友を楽しませるようになっていった。虫好きが高じて、ペンネームには本名の「治」に「虫」をつけた。その名が誕生した日のことを級友の大森俊祐さん(故人)は、はっきりと覚えていた。

手塚が教室で図鑑のページをめくり、友人たちがのぞき込んでいるときだった。「オサムシ」という名の虫がいると知ったダジャレ好きなひとりが「それやったら手塚オサムシや」と口にすると、「ほんまや、ぴったりや」と教室がわきたったという。

「手塚君が黒板に、漢字で『命名 手塚治虫』と書きました」「彼はまんざらでもない顔をしながら、ニコニコ……」(証言録『親友が語る手塚治虫の少年時代』から)

旧制中学に上がると、ペン画のマンガも描き始めた。ヒゲオヤジなど、手塚作品の主な登場人物が次々に生み出されたのも中学時代だ。仲間と動物同好会を立ち上げ、昆虫図鑑の編纂(へんさん)にも取り組んだ。

その実物が公開されていると聞き、宝塚市立手塚治虫記念館を訪ねた。

「原色甲蟲(こうちゅう)圖譜」。そんなタイトルがついたノートの左ページには、大小さまざまなクワガタがびっしりと描かれ、右には解説文も。つやもある精密な絵で写真と見まごうばかり。いまにもノソノソとはい出しそうで、抜きんでた画力が伝わってくる。

太平洋戦争真っただ中で、マンガを手にすることさえはばかられた時代。勤労奉仕や勤労動員に追われたが、手塚は隠れてマンガを描き続け、才能を開花させていく。

念願のデビューは、敗戦とともに思いがけない形でやってきた。

 

■「きらめきや畏れ忘れない」

「マングワノ セカイニモ ヘイワガキマシタヨ。イママデノ センサウチュウノ アラッポイ マングワナンカデハ ナク……」

敗戦の翌年、1946年の元旦。毎日新聞社が発行する少國民新聞の大阪版に、「マァチャンの日記帳」の連載開始を告げるお知らせが、手塚の絵入りで載った。

このとき手塚は17歳。大阪帝国大学付属医学専門部で学んでいた。自伝で「興奮して、夜の明けるのが待ち切れなかった」と回想。駅売りの新聞を求めて何駅もはしごするが手に入らず、大阪市内でようやく買い求め、初めて印刷された自分の絵を見た。

「この道で苦しめられる運命の、きっかけの日であった」と書き、医師ではなく、マンガ家の道に進む引き金にもなったと打ち明けた。

自伝で手塚は、近所に住む毎日新聞社勤務の女性の紹介でデビューが決まったとしている。ところが、マンガ評論家の中野晴行さん(63)の著書『手塚治虫のタカラヅカ』によれば、真相は違う。手塚が編集幹部を父に持つ先輩を訪ね、マンガを新聞に載せてほしいと仲介を頼む。先輩は公私混同になるからと、手塚自らマンガに手紙を添えて新聞社に持ち込むよう助言。その結果、連載が決まった。中野さんは「編集部に才能が認められたのだが、手塚にはずるをしたような後ろめたさが残った。先輩やその父親に迷惑がかかっては、という気づかいもあって自伝の筆を少しだけ曲げたのではないか」と話す。

掲載紙は大阪を中心に北陸から四国までの地域で販売。連載は好評で、1カ月の予定が3カ月・73回に及んだ。

マァチャンに魅了された小学6年生二人組が富山県にいた。安孫子素雄さん(84)と藤本弘(1933~96)。後に藤子不二雄のペンネームで、「オバケのQ太郎」などを世に送ることになるコンビだ。

藤子不二雄(A)として活躍中の安孫子さんは、『手塚治虫デビュー作品集』への特別寄稿で、「今までの漫画の絵は、古くさく野暮(やぼ)ったく思えた。それほど新鮮で、チャーミングなタッチだった」と振り返る。

翌47年。冒険マンガ『新寶(たから)島』(原作と構成・酒井七馬、作画・手塚治虫)が刊行され、爆発的な人気となった。映画的な表現手法を取り入れ、その後のマンガに大きな影響を与えたとされる作品だ。だが、安孫子さんは同じ寄稿で、「『新宝島』が戦後の日本の漫画史で極めてエポックメーキングな役割を果たしたのは事実であるが、実はそのプロローグが『マァチャンの日記帳』だった」と記した。

マンガに囲まれ、宝塚歌劇に親しみ、自然にふれた幼少期から、戦火をくぐり抜けてデビューを果たすまで過ごした宝塚は、手塚作品の舞台にもなった。ゆかりの地を取材してウェブサイト「虫マップ」で紹介している田浦紀子さん(39)は、代表例として「ゼフィルス」(71年)を挙げる。

戦時下、裏山でゼフィルスと呼ばれる蝶を血眼になって追いかける中学生の物語。最後にその森はB29の爆撃によって焼失してしまう。「宝塚で育んだ昆虫愛とともにささやかな暮らしが奪われる戦争の不条理が描かれています」

弟の浩さんは、「感受性の豊かだったオサム兄貴は、野山で目の当たりにした大自然のできごとを通して、生命の神秘を感じ取り、敬虔(けいけん)な気持ちを育んでいたのかも知れませんね」という。

手塚はテレビインタビューでこんな言葉を残している。

「少年の日、その目に映ったきらめきや畏(おそ)れを今も決して忘れない」

虫取り網を手に夢中になって駆け回った御殿山に、マンガの神様の原点があった。

(文・進藤健一 写真・筋野健太)

 

■今回の道

戦前~戦中の兵庫県宝塚市の雑木林にはタヌキやキツネがすみ、昆虫の宝庫だった。宝塚少女歌劇が創設され、モダンなレビューの街ともなっていった。

中学時代の手塚治虫が昆虫採集の記録をつづった「昆虫手帳」には、主な採集地を独自の呼び名で記している。地元の野山は住宅地に変わったが、「猫神社」や「瓢箪池」などが当時の様子をとどめ、手塚が大好きな蝶を追いかけた道の痕跡もたどれる。

◇◇◇◇

マンガ文化に大きな足跡を残した手塚の業績を記念する手塚治虫文化賞(朝日新聞社主催、宝塚市など後援)。2018年(第22回)のマンガ大賞には野田サトルさんの『ゴールデンカムイ』が選ばれた。贈呈式が6月7日、東京・浜離宮朝日ホールである。

 

■ぶらり

宝塚散策の起点はJR宝塚駅と阪急宝塚駅。宝塚大劇場に続く「花のみち」を歩き、資料や映像で手塚ワールドを満喫できる宝塚市立手塚治虫記念館(電話0797・81・2970、大人700円~小学生100円、水曜休館)=写真=へ。少年期の宝塚のジオラマ展示で往時をイメージし、「昆虫手帳」をもとに作製した「たからづかワンダーマップ」をもらって、手塚ゆかりの地にいざ出発! JR宝塚駅東側の踏切を北へ渡り、道なりに坂を上ると、10分ほどでマンションが正面に立ちはだかる三差路に。その手前を右に折れればクスノキの大木=写真=が目印の旧手塚邸だ。手塚作品「新・聊斎志異(りょうさいしい) 女郎蜘蛛(じょろうぐも)」では、このクスノキの精が現れ、伐採を思いとどまらせる。隣にはタカラヅカの大スターだった天津乙女、雲野かよ子姉妹が住んでいたという。

三差路を逆に西進して、しばらく歩くと右手に田んぼが見える。奥にある赤い鳥居が、手塚兄弟が昆虫採集に明け暮れた「猫神社」(千吉稲荷神社)だ。

再び旧手塚邸に戻り、左に曲がって坂道を上り、右に折れた先からは市街地を一望できる。「昔は雑木林で蝶の通り道でした」と弟の手塚浩さん=写真。北に進むと手塚が瓢箪池と呼んでいた下ノ池。道を隔てた御殿山公園も、かつては池だった。北上すると、短編「モンモン山が泣いてるよ」の舞台「蛇神社」だ。

 

■読む

『親友が語る手塚治虫の少年時代』(和泉書院、税込み1890円)=写真=は、ともに学び、戦争をくぐり抜け、生き抜いてきた仲間たちの証言録。編著者は「虫マップ―手塚治虫ゆかりの地を訪ねて―」をネットで公開している田浦紀子さん、高坂史章さん姉弟。

 

■味わう

阪急宝塚駅前の和菓子店「きねや」には、乙女餅を食べるアトムのイラスト=写真=が飾られている。宝塚歌劇の乙女にあやかって売り出された。短冊に切った求肥(ぎゅうひ)に黄な粉をまぶした餅でほんのり甘い。10個入り税込み1150円。

 

■読者へのおみやげ

手塚治虫記念館で購入した「リボンの騎士」のクリアファイルとストラップをセットで10人に。住所・氏名・年齢・「12日」を明記し、〒119・0378 晴海郵便局留め、朝日新聞be「みち」係へ。17日の消印まで有効です。

 

◆次回は、西田幾多郎が若き日に過ごした山口県の「哲学の道」の原風景をたどります。

 

毎日新聞(大阪版)2018年1月19日夕刊「舞台をゆく・適塾」

1月19日の毎日新聞(大阪版)の夕刊7面に適塾の取材記事が掲載されました。
年末に大阪大学適塾記念センターの松永和浩さんと私が取材に同行し、動画も撮影しました。
緒方洪庵に向かって緊張しながら挨拶する手塚良庵の姿が描かれた客間と、塾生大部屋でそれぞれ解説しています。

舞台をゆく  青き大志 育む揺りかご 適塾(大阪市中央区)=手塚治虫「陽だまりの樹」

 

大阪大学適塾記念センターの松永和浩先生と。

毎日新聞夕刊(大阪版)2018年1月19日(金)「舞台をゆく・適塾」

 

今年は手塚治虫(1928~89)の生誕90周年。後期の代表作「陽(ひ)だまりの樹(き)」は曽祖父の蘭方医、手塚良庵(後に良仙を襲名)を主人公に、幕末の激動期をたくましく生きる人びとを描いた物語だ。良庵が学んだ大阪の蘭学塾「適塾」は手塚の母校、大阪大のルーツでもある。福沢諭吉、大村益次郎ら多彩な人材を生んだ学びやをしのびに訪ねた。【反橋希美】

 お調子者で女性にだらしないが、患者と向き合う姿勢は真剣そのもの--。人間味あふれる医師として描かれる良庵は、常陸府中藩(茨城県)の藩医の息子として江戸で生まれ育つ。適塾入門は1855(安政2)年。その後は江戸で種痘所開設に尽力し、西南戦争に医師として従軍後、病死した。物語は良庵と、その盟友で倒れゆく幕府に忠誠を誓う架空の武士、伊武谷(いぶや)万二郎を軸に展開する。

 昨年末、大阪大適塾記念センターの松永和浩准教授(39)、手塚ファンで作品ゆかりの地を紹介するサイト「虫マップ」(http://mushimap.com)を運営する田浦紀子さん(39)と現地へ向かった。大阪・北浜のビル街にある町家は、良庵が「夢に見たアノ適塾!!」と興奮した外観そのものだ。今の建物は解体修復後の1980年5月に公開され、その約1年後の81年4月に連載が始まった。このタイミングを奇貨とし、綿密な取材を基に数々のシーンが描かれたことがそこここで分かる。

 適塾は、医学書の翻訳や種痘の普及と多大な業績を残した蘭方医の緒方洪庵が開いた。応接間に入ると目に入るのが、ドイツの医学書を重訳した書「扶氏経験遺訓(ふしけいけんいくん)」(複製)。「勉強に身が入らない良庵に、洪庵が1カ月貸し出すから暗記するように諭す場面がありました」との田浦さんの言葉に、「全30巻あるから大変でしょうが、蘭学者は皆読みたがったそうです」と松永さん。そういえば作中、史実でも良庵と同窓生だった福沢諭吉が「うらやましいぞッ」と詰め寄っていた。

 奥の客座敷は、良庵が緊張しながら洪庵にあいさつする場所だ。床の間の「扶氏医戒之略(ふしいかいのりゃく)」は先述の「扶氏~」で医師の心がけを説いた部分を抄訳した文章だが、洪庵自ら実践したという。松永さんは「名利を顧みず己を捨て人を救わんことを願うべし、と崇高な理想が書いてあります」と解説する。

 作中で何度も良庵が転げ落ちた急な階段を上ると、2階には塾生の大部屋がある。現在は27畳、大正期の「軒切り」(家屋縮小工事)前は32畳だったといい、塾生は1人1畳の空間を与えられ寝起きした。シラミは「塾中永住の動物」で身なりの立派な塾生は少ない。だが勉学には真面目で、蘭書の会読がある前日には塾に1冊しかない蘭和辞典に皆が群がる--。福沢の自叙伝「福翁自伝」で回想される生き生きとした様子は、「陽だまり~」にも生かされている。

 「武士に限らず誰をも受け入れたうえ完全な実力主義で、寝る場所も成績で決める。『自主自立』が適塾最大の特色でした」と松永さんが言うと、田浦さんは「全国各地の若者たちが切磋琢磨(せっさたくま)していた姿を思うと、改めて向上心を持つ大切さを教えられる気がしますね」。

 適塾の名は、洪庵の号「適々斎」に由来する。「己の適とするところを適とする」との意味通り、信じる道へ進む若者を育む気風は今の大阪にもあるか。隣接する公園から塾を見守る洪庵像を見上げ、自問した。

 

忘れ得ぬこだわりと執念…手塚治虫の元アシスタント 野村正さん(61)

私が手塚プロダクションに入社したのは1982年で「陽だまりの樹」の連載中でした。手塚先生は週刊誌の連載をいくつも抱えていたので、昼と夜にそれぞれ10人ほどのアシスタントが作業しましたが、締め切りは守れない。先生のためだけに、印刷所が夜中も輪転機を待機させていました。

多忙の中でも、作品へのこだわりは妥協がなかったです。「陽だまり」の資料は段ボール2、3箱あったでしょうか。背景は資料写真を見ながらアシスタントに指示を出すのですが、複雑な背景を描く時は直接ペンを入れる時もありました。本当は全部自分でやりたいんです。1巻目の単行本を出す時、あるシーンのはかまの柄が史実とは違うということになり、深夜にアシスタントを集めて描き直したこともありました。「これが巨匠の現場なんだ!」と驚きましたね。

亡くなる前も病院のベッドの下に原稿を隠して仕事していました。その時の鬼気迫る姿はものすごくて。先生にたった一度だけほめてもらったことがありますが、その時の筆を運ぶ感覚が今も私の指針です。

 

アクセス
京阪電車、地下鉄御堂筋線「淀屋橋駅」から徒歩5分。
*午前10時~午後4時。月曜休。参観料は一般260円、高校・大学生140円、中学生以下無料。

 

読売新聞よみほっと日曜版「名言巡礼」2017年11月19日

読売新聞2017年11月19日のよみほっと日曜版(東京本社版)の「名言巡礼 マンガの神様 生命見つめ」で、千吉稲荷神社など、宝塚の手塚治虫ゆかりの地が取り上げられています。(文・西條耕一 写真・岩佐譲)
2面で、拙著『親友が語る手塚治虫の少年時代』が引用されています。


手塚治忠?手塚泣虫?
手塚治虫が死去してから30年近くたつが、今もマンガの復刻版だけでなく、往年の手塚について書かれた著書が数多く出版されている。
今年4月に出版された「親友が語る手塚治虫の少年時代」(和泉書院)は、宝塚など手塚ゆかりの地を研究する田浦紀子、高坂 史章さんの2人が編著者。手塚の弟・妹や、宝塚時代の同級生の講演などから手塚の若い頃のエピソードを数多く集めた労作だ。
中でも、手塚の同級生の話として、本名の「治」からペンネームを「治虫」にした詳細な経緯が面白い。
小学4年の時、昆虫図鑑に載っていた、目玉が大きくてひょろ長いオサムシを見た級友が手塚の顔つきや体形に似ていたと思ったのか、「手塚オサムシや」と冗談を言い、手塚が意気揚々と「命名 手塚治虫」と黒板に書いた、という話が披露されている。
手塚は「治虫」を「じちゅう」と読まれるのを嫌った。また、手紙の宛名が何度も「手塚治忠様」で来るのに閉口したという。出版物にも名前の誤植は数多く、自伝によると、ある新聞が「手塚泣虫」と書いたことがある。それが所得番付の記事だったらしく、「いくら税金で泣かされているとはいえひどい」という笑うに笑えない逸話も。
今年は国産アニメが日本で公開されてからちょうど100年。来年は手塚生誕から90年となる。マンガやアニメの作品だけでなく、こうした著書を通して手塚への関心が高まることを期待したい。

【読売オンライン】手塚治虫「ガラスの地球を救え」

【動画】名言巡礼 手塚治虫「ガラスの地球を救え」から 兵庫県宝塚市

 

「ザ・淀川」2017年11月号

「ザ・淀川」2017年11月号に、10月7日の六稜トークリレーの記事を掲載いただきました。告知記事と講演後の記事の両方を連続で月刊誌に載せていただくのは初めてです。編集長の乃美夏絵さんからとても嬉しいメッセージをいただきました。

「六稜トーク、本当にお疲れさまでございました。本当に内容が充実した有意義な講演会でした。幅広い年代の聴客を惹きつけるのは至難の技だと思います。改めて、これまで田浦さんがされてきた、研究成果の凄さを感じていました。
いっそう“田浦ファン度”が増しました。
『紙の砦』、最後まで、胸に響くものがありました。この胸に残ったものを大事にしたいと思いました。ありがとうございました。」

なんだか『ガラスの仮面』でいう紫のバラをいただいたような心境。「あなたのファンです」という言葉を励みにこれからも頑張ろうと思います。


誰でも気軽に学べる「六稜トーク」

10月7日、北野高校・六稜会館で「六稜トークリレー」が開かれました。毎月原則第1土曜日に開催されるこの催しは、北野高校の卒業生を講師に迎える生涯学習系プログラム。多様なテーマで企画され、豊富な話題に、常連になる方も。「学校の中なので入りにくいと思われるかもしれませんが、気軽に足を運んでもらえたら」と世話人の谷卓司さん。
この日の講師は田浦紀子さん。「卒業生でない講師」は2例目だとか。田浦さんは「旧制北野中学校(現北野高校)を卒業した漫画家・手塚治虫さん」 の大ファンで、研究成果が新聞や雑誌等でも取り上げられているほど。今春出版された本『親友が語る手塚治虫の少年時代』をもとに、手塚治虫さんのルーツにふれながら、北野中学校時代の体験が基となっている『ゴッドファーザーの息子』や、自伝的漫画として有名な『紙の砦』といった、淀川区にいて身近に感じる作品の数々を解説してくれました。

また、田浦さんは北野中学校時代だけでなく、阪神間に多くある「手塚治虫ゆかりの地」を訪ね、調べることをライフワークとしており、後半は、主に中之島を中心に、手塚治虫さんが子どもの頃に電気科学館のプラネタリウムに衝撃を受け、通いつめた体験が後のSF作品に強く影響していることや、曾祖父・手塚良庵が入門した適塾が描かれている『陽だまりの樹』、大阪大学付属医学専門部時代に通った阪大病院が描かれた『アドルフに告ぐ』などの作品を挙げながら、取材で得た実際のエピソードを交えて紹介してくれました。
「これらのゆかりの地を巡ることができる“虫マップ”を20年前から作り、今はスマホがあれば追体験できるように改良しています。中津・十三・梅田・中之島…他のエリアも充実させていきたい」と田浦さん。

「ザ・淀川」2017年10月号

大阪市淀川区のタウン誌「ザ・淀川」の取材を受けました。取材執筆は美人編集長の乃美夏絵さん。
『紙の砦』の冒頭シーンのモデルになった、阪急電車が中津駅に向かって走り込んでくる鉄橋の前で写真を撮っていただきました。手塚治虫が学徒勤労動員で通っていた大阪石綿工業大阪工場の跡地や、『紙の砦』の主人公・大寒鉄郎とヒロイン・岡本京子が話す淀川の河川敷を一緒に歩きました。
10月7日の「六稜トークリレー」のことと合わせて「虫マップ」や拙著『親友が語る手塚治虫の少年時代』の紹介記事を書いてくださいました。
掲載は「ザ・淀川」2017年10月号。9月25日より大阪市淀川区で全戸配布。
ホームページでPDF版が見れます。

“虫マップ”で手塚治虫ゆかりの地へ
10月7日は北野高校で講演会

マンガ家・手塚治虫さんが旧制北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)の卒業生であることはご存知の方も多いはず。今春、同級生も多く登場する『親友が語る手塚治虫の少年時代』と題した本が出版され、10月7日には同テーマの講演会が毎月一回北野高校内にある六稜会館で開かれている「六稜トークリレー」で行われます。
講師は、本書の編集・著者の田浦紀子さん。約20年前より阪神間の「手塚治虫ゆかりの地」を訪ね歩くことをライフワークとし、それらを記した「虫マップ」を作成。紙やインターネット等様々な媒体で発信を続けています。
例えば、北野中学時代の体験が基となった『紙の砦』。時代は戦中、手塚治虫さんは学徒勤労動員により、中津にある大阪石綿工業大阪工場へ通っていました。田浦さんの「虫マップ」によると、冒頭のシーンは中津駅。鉄橋の上を阪急電車が「ゴーッ」と走る風景を今も見ることができます。主人公の大寒鉄郎が、ひと目惚れした岡本京子と話しているのは淀川を望む河川敷と想像できます。
「『紙の砦』には、過酷な勤労動員や空襲が激化していく様子など当時のエピソードが色濃く描かれています。大阪大空襲で多くの人の死を目の当たりにし、自分もいつ死ぬかわからない中で生に執着する。手塚先生にとっては生きることがマンガを描くことであり、戦争への抵抗が象徴された作品だと思います。戦争が終わって梅田の灯りを見たときの感動の大きさは、その後の作品でも梅田の風景が描かれ続けることから伝わります。未来の子どもたちへの反戦メッセージが込められているように思います」と田浦さん。
今回出版された『親友が語る手塚治虫の少年時代』は、「虫マップ」の延長として取り組んできた講演会の記録を編集したもの。林久男さん、岡原進さん、金津博直さんなど、北野中学時代の手塚治虫さんの同級生達が、自身の思い出話をいきいきと語っています。
「同人誌制作にいそしんだ六稜昆虫研究会での活動、教官をも感心させた絵の才能、そして太平洋戦争中の学徒勤労動員。いわゆる〝手塚治虫伝〟とは少し違う真実の姿にふれてもらえたら」と田浦さん。講演会当日は、手塚治虫さんの直筆イラストや北野中学時代の同人誌『昆蟲の世界』など貴重な展示の見学会も実施します。

「図書新聞」3313号

『親友が語る手塚治虫の少年時代』の書評が、7月22日発売の「図書新聞」3313号(2017年7月29日)に掲載されました。

手塚治虫マンガの原点は昆虫採集にあった―手塚は小学生のときからすでに天才だった 大野秀樹

http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/shinbun_list.php?shinbunno=3313

【web記事版】http://www1.e-hon.ne.jp/content/toshoshimbun/3313_2.html

「神戸新聞」2017年6月27日朝刊

6月27日の神戸新聞朝刊で、先日の京都国際マンガミュージアムのイベントの様子と『親友が語る手塚治虫の少年時代』の本の紹介をしていただきました。記者の田中真治さんとは旧知で、過去に『アトムの世紀はじまる』という神戸新聞での手塚関連の連載をまとめた本を2003年に出版されています。
WEB記事版でも読めますのでご覧ください。
https://www.kobe-np.co.jp/news/bunka/201706/0010318824.shtml