◆インタビュー 坪田文太さん

―手塚先生のアシスタントになったきっかけを教えてください。

大阪芸術大学を卒業して一年くらい、大阪のどおくまんプロで1年年半、漫画家のアシスタントをしていましたが、やはり東京に行かねばと思い、東京在中の漫画家さんのアシスタント募集に応募しました。他にも松本零士さんや六田登さんの会社も受けましたが、たまたま受かったのが手塚プロでした。既に手塚先生の全盛期ではなかったものの、それでも40人くらいの応募があったそうです。僕らの上の世代の石坂啓さんや上野義幸さんの頃などは300人くらい応募があったようですね。1983年に手塚プロに入社して3年半、手塚先生のアシスタントを務めました。入社当時、僕は23歳、同期の吉住くんは19歳でした。1986年放送のNHK特集「手塚治虫・創作の秘密」には吉住くん山本くんなどは出ているけど僕は映っていない。撮影の現場にはいたんですが。例え手塚先生に怒られていても吉住くんは映っていていいな~と思いました(笑)。

―『アドルフに告ぐ』でご自身が関わったページを教えてください。

単行本化の際に追加された、第1章の1ページ目と第36章の最後のページのお墓のシーンを描いたことが一番印象に残っています。冒頭には「これはアドルフと呼ばれた三人の男達の物語である」というナレーション、最後はドイツ語の「DAS ENDE」で物語が締めくくられていいます。まるごと1ページを全部描いたのは、これが初めてでした。 それから神戸空襲の後、峠草平が妻の由季江を助けるために神戸から大阪まで自転車で走っていくシーン。焼け野原になった大阪の戎橋は僕が描いたように記憶しています。

第1章 冒頭ページ ©手塚プロダクション

第36章 最終ページ ©手塚プロダクション

第33章 大阪空襲後の戎橋を疾走する峠草平 ©手塚プロダクション

 

―参考にした資料について。

印象に残っているのは、アドルフ・カミルが帰国するシーンで出て来るUボートを描くために設計図を国会図書館へ取りに行った事です。一般人が入れない特別な地下室は薄暗くかび臭い部屋だった印象があり、不気味な感じがしました。

―手塚先生との思い出やエピソードを教えてください。

最初に「あなたがたは大人なのだからサインなど求めないでください」と手塚先生に言われました。本当は欲しかったのですが、これを言われると求めるわけにはいきません。手塚プロを退職する時期に慰安旅行がありまして、辞めるのだから記念にサインをいただこうと、夕食時に色紙とペンを持って先生にお願いしました。だけど「後で」と言われ、先輩も「これは無理だね」と言われ諦めていたところ、帰りの観光バスで先生が自分の座席までやってきて、「サインします、色紙とペンを」と言われ、揺れているバスのなかでキャラを一杯描いたサイン色紙をいただきました。そこには「まんが道はけわしい、がんばって」と書かれてあって感動しました。今も大事に飾ってあります。

『アドルフに告ぐ』没原稿。庭で峠を問い詰めるカウフマンが後ろ向き。  『アドルフに告ぐ』単行本に掲載されたバージョンではカウフマンの向きが変わっている。

第28章 庭で峠を問い詰めるカウフマン ©手塚プロダクション

坪田文太(つぼた・ぶんた)
1959年、兵庫県伊丹市生まれ。1983年、大阪より上京、手塚プロダクションに入社。漫画制作部に配属、『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』『ブッダ』『火の鳥(太陽編)』などの制作のアシストをする。手塚プロ退職後、森園みるく、いがらしゆみこのチーフアシなどを経て、2012年、住み慣れた関東から大阪の実家に戻ってくる。現在は、フリーのアシスタントで生計を立てている。

(2018年5月30日取材)

※ヤフーオークションで、手塚治虫先生のこのサイン色紙と酷似した贋作が販売されていました。こちらのサイン色紙は本物です。画像のトレース作品の作成・販売は固くお断り致します。