◆インタビュー 宇都實さん

手塚治虫先生の妹・美奈子さんの旦那様・宇都實(うと・みのる)さんからお電話を頂戴し、思い出話を伺いました。大変貴重な内容ですので、インタビュー記事としてまとめます。美奈子さんは、昭和7(1932)年9月27日生まれ。国立(くにたち)音楽大学を卒業後、ピアニストになり、東京交響楽団の宇都實さんとご結婚。平成27(2015)年11月17日に83歳で逝去されました。

―美奈子さんとは音楽を通してのご結婚だそうですね。

美奈子とは、国立音楽大学の同級生だったんです。入学前は「国立音楽学校」といったのですが、私が入学した後に専門学校から四年制の大学になりました。美奈子は、池田師範附属小学校を卒業した後、池田附属中学校に進学。その後、豊中高等女学校、大阪音楽学校を経て、昭和27(1952)年、国立音楽大学に入学しました。受験から結果発表までの二週間くらい、上北沢にあるお母様・文子さんの実家の服部家で過ごしていたそうです。
美奈子は国立音楽大学のピアノ科の寮生。私は器楽科でクラリネットを専攻し、二年の頃に同級生になりました。三年か四年の頃に演奏会でのピアノの伴奏をお願いしたところ、快く引き受けてくれました。以後、何度か演奏を通じて仲良くなり、国立音大の寮のご飯があまり美味しそうではなかったので、私のお弁当と取り換えたりしました。
四年の頃に、私の家に行きたいと言うので、荻窪の家に連れて行き、私の両親を紹介して母の手料理を美味しいと喜んでくれ、庭の千寿柿をお土産に持って帰りました。そんなことで仲良くなりました。四年の終わり頃に、うちで飼っていた猫に子どもが生まれ、宝塚で暮らすお母様の文子さんが寂しくないように、とあげることにしました。猫を宝塚まで届けるのに東京から大阪まで夜行列車で一緒に行ったのですが、途中で猫を連れていることを車掌さんに見つかってしまい「何を持っているんですか」と咎められました。事情を話したところ、車掌室の中に入れてもらい、なんとか大阪まで着きました。大阪から宝塚までの阪急電車ではあまり混んでいなかったので、見つからずにすみました。ペルシャ猫のような毛並みで白地にグレーの斑点のある猫で「ムク」と名付けて文子さんは可愛がっていました。
昭和31(1956)年3月に国立音楽大学を卒業し、私は東京交響楽団に入団しました。三年後の昭和34(1959)年3月に美奈子と結婚し、九段会館で式を挙げました。レンガ造りの立派な軍人会館で、当時二人とも若くお金が無かったのですが、九段会館のホテルのマネージャーが、私が所属する楽団のマネージャーでもあった関係で、安くしてもらえました。その頃に荻窪に一軒家を建てたのですが、結婚式の後、ハイヤーで荻窪の家に着いた時「こんなにウェディングドレスがよく似合う花嫁さんは見たことがない」と褒められたほどでした。

―その頃は手塚治虫さんも東京で活躍されていた頃ですね。

義兄(治虫)が漫画を描いていた椎名町のトキワ荘に彼女と一緒について行ったことがあります。月、二回ペースくらいで洗濯物の持ち帰りなど、身のまわりの世話をしていました。国立は、道は広いんですが、帰りが遅くなるし寮まで結構な距離があります。彼女は「平気よ」と言うのですが、私は心配で迎えに行ったりしました。並木ハウスにも何度か行きましたが編集者が3、4人居て部屋が一杯で結局、義兄(治虫)には会えなかったと思います。きちんと顔を合わせたのは、義兄が昭和34(1959)年10月に宝塚ホテルで結婚式をあげた時でした。その際に手塚家に泊まりました。母屋から三メートルくらい先の離れに六畳間があり、その部屋に泊まりました。窓があって庭の枝が見える素敵な部屋でした。お父さん(手塚粲)もお母さん(手塚文子)も親切で「いいですよ」というので、その後、宝塚で演奏旅行がある時に泊まらせていただきました。
―宝塚の手塚家は大正時代に建てられた和洋折衷の邸宅だそうですね。

庭が広くて裏が山で崖になっているんですよ。そこから山水が流れてくるんです。日本庭園があって、池に山の水が流れ込んでいました。隣りの家は宝塚スターの天津乙女さんの家なんですよ。庭つづきになっていて、美奈子が生垣から隣家に入ってしまったら「あら、可愛いわね」と可愛がられたという話を聞きました。

宇都美奈子さんが描かれた宝塚の手塚邸の間取り図。2003年の講演会「親友が語る手塚治虫の少年時代」終了後、筆者宛に送られてきたもの。

手塚文子さんのお父さんの服部英男さんは、ヨーロッパの大使館付きの陸軍武官で、音楽に教養がありました。大使館を異動する中で、音楽会などにも行かれたようです。それで、娘の文子さんのためにドイツ製のピアノをお土産として買って帰ったのです。ところが、何らかの事情で横浜港の税関で止められてしまいました。しかし、軍人さんのためだからと別のピアノを代わりにピアノ師に組み立ててもらい、ドイツ製のピアノを持って帰れるように手配しましょうということになったようです。大正13年製造のアップライトピアノで、「スペリオール」という銘がはいっています。今では珍しい漆塗りで、かなりの重量があり、三つのペダルのうち真ん中を押すとチェンバロ風の音が出ます。服部文子さんは手塚家にそのピアノを嫁入り道具として持って行きました。さらに美奈子が宇都家に嫁入り道具として持って来て、今は私達の娘の瑠音の家にあります。

 

服部文子さんが手塚家に嫁入り道具として持ってきたアップライトピアノ。美奈子さんが手塚家から宇都家に持って行き、現在は、娘の瑠音さんが所蔵している。漆塗りで、鍵盤の数は85鍵。3つあるペダルのうち、真ん中を踏むと、ハンマーが弦に当たる前に竹のチップに触れることで、チェンバロ風の音が出る仕組みになっている。「スペリオール」との銘が入っており、「S.G.LEA」の文字から、大正時代に横浜華僑の李佐衡が弟とともに創業した「李兄弟ピアノ製作所」で組み立てられたものと思われる。

2021年4月16日電話取材