【開催レポート】大阪あそ歩「手塚治虫を巡る・中之島編~傑作マンガのヒントを得た町~」

6月16日、大阪あそ歩のツアー「手塚治虫を巡る・中之島編~傑作マンガのヒントを得た町~」を開催しました!『陽だまりの樹』の舞台となった適塾から、ツァイスⅡ型プラネタリウムが保存されている大阪市立科学館まで、約20名の参加者と共に歩きました。いろんな方のご縁が繋がって、お天気にも恵まれ、とても充実した一日でした。街と手塚治虫の魅力を発信し続ける活動、これからも続けていきたいと思います。

 

 

6月16日(日)大阪あそ歩「手塚治虫を巡る・中之島編 ~傑作マンガのヒントを 得た町~」

「虫マップ」作者の田浦紀子さんの案内で、『陽だまりの樹』の舞台となった適塾から、少年時代に夢中になったツァイスⅡ型プラネタリウムまで、中之島界隈の手塚治虫ゆかりの地を巡ります。リニューアルオープンした大阪市立科学館では、電気科学館50周年の手塚治虫氏の講演に携わられた、元大阪市立科学館館長の加藤賢一さんからお話を伺います。
ゲストスピーカー:大阪大学適塾記念センター・松永和浩さん、大阪市立科学館・嘉数次人さん

①集合場所(地下鉄淀屋橋駅北改札口)⇒②懐徳堂の碑⇒③適塾⇒④除痘館跡・緒方ビル⇒⑤石原時計店⇒⑥⇒中之島フェスティバルタワー(朝日会館跡)⇒⑦大阪大学医学部跡⇒⑧大阪市立科学館

実施日時:6月16日(日)13:00~15:30

集合場所:大阪メトロ御堂筋線淀屋橋駅北改札口
参加費:2000円(小学生以上)※入場料込み。当日お釣のないようにお持ちください。
参加申し込み:「大阪あそ歩」のホームページhttps://www.osaka-asobo.jp/course778.html

 

【開催レポート】船場大阪を語る会で講演いたしました。

3月9日「船場大阪を語る会 第189回例会」に登壇の機会を得て、愛日会館で講演いたしました。六稜60期の故・三島佑一先生が会長を務めており、和泉書院ともご縁があることから、本会への登壇がようやく叶いました。

昭和19年の夏、北野中学と堺一中の生徒が仁川の一里山健民修練所で合宿生活を送りました。この時の思い出は『紙の砦』で描かれていますが、その際一緒に行っていたのが三島佑一さんでした。


三島佑一さん、仁川の一里山健民修練所の思い出について語る。(2014年2月11日大阪歴史博物館にて)

弟・高坂史章による挨拶。

船場大阪を語る会・現在の会長の西岡透さん。

緒方洪庵記念財団の川上潤さん、大阪大学適塾記念センターの松永和浩さんと、二人も適塾関係者がお越し下さいました。除痘館跡(緒方ビル)に飾られている「陽だまりの樹」の絵の由来について、川上さんに語っていただき、松永さんからは現在進めている、適塾の新装版の図録製作プロジェクトについて語っていただきました。

緒方洪庵記念財団の川上潤さん、大阪大学適塾記念センターの松永和浩さんと。

船場倶楽部の日比哲夫さんと。

『親友が語る手塚治虫の少年時代』の装幀を手掛けて下さった谷卓司さんと。

弟、夫、両親、伯父伯母と。

3月17日(日)池田「まんぷく」ツアー

プロガイドの藤堂千代子さん、万博ミュージアム館長の白井達郎さんと組んで、池田「まんぷく」ツアーを実現する運びとなりました。私は、手塚治虫が通った池田師範附属小学校建石校舎跡地(現池田文庫)を案内します。NHKの朝ドラ「まんぷく」で白井達郎さん提供の万博グッズが映りましたが、それらの小道具も今回のツアーでお見せします。「てるてる家族」や「あさが来た」のネタも登場!とても濃い内容のツアーですので、ぜひこの機会にご参加を!

池田にこの人あり!~漫画の神様・手塚治虫 阪急電鉄の創始者・小林一三 即席ラーメン開発者・安藤百福~

手塚治虫が通った池田師範附属小学校跡地、阪急電鉄創始者・小林一三の旧宅、朝ドラ「まんぷく」のモデル・安藤百福がチキンラーメンを開発した小屋など、池田が輩出した人物ゆかりの地をめぐります。ゲストスピーカーは、「虫マップ」作者で手塚ファンの田浦紀子さんと、池田ジモティで万博ミュージアム館長の白井達郎さん。どんなエピソードが出てくるかお楽しみに!

①池田駅⇒②栄町商店街⇒③旧いとや百貨店⇒④旧加島銀行池田支店⇒⑤池田師範附属小学校建石校舎跡地⇒⑥小林一三記念館⇒⑦室町住宅⇒⑧呉服小学校⇒⑨万博ミュージアム ⇒⑩安藤百福が研究所を作った借家⇒⑪カップヌードルミュージアム

実施日時 3月17日(日)13:00 集合:阪急池田駅改札前

参加費用 1500円(小学生以上)※当日お釣のないようにお持ちください。
定員 15名 ガイド:藤堂千代子

3月9日(土曜日)船場大阪を語る会(愛日会館)で講演します。

船場大阪を語る会
第189回例会 ご案内

今回は、田浦紀子氏に「手塚治虫と大阪」という演題でご講演いただきます。
田浦(旧姓 高坂)さんは、昭和53(1978)年大阪市生まれ。京都精華大学ご卒業。在学中から、漫画家 手塚治虫のファンとして、弟さんの高坂史章氏と共に、研究誌「虫マップ」を発表し、その後も手塚氏のご親族の方やご友人から様々な助言を得て、手塚氏の作品と足跡等の研究を続けて来られました。
また、手塚氏の北野中学校(現 北野高校)時代を研究する中で、同校の「六稜同窓会」会員 岡原進氏(手塚氏同級生)、三島佑一氏(当会前会長)、谷卓司氏(当会協力会員)等の協力を得るなどして、昨年には、高坂史章氏と共に編著書『親友が語る手塚治虫の少年時代』(下記)を 上梓されました。
今回、戦後の日本を代表する漫画家 手塚治虫の、大阪や宝塚(少年期)での足跡や思い出等を氏のご弟妹、同級生の方々などの証言を元に語っていただきます。
皆様、ぜひお誘い合わせご出席ください。
・共編著書『親友が語る手塚治虫の少年時代』 和泉書院 2017年5月発行


日時 平成31年3月9日(土) 午後1時30分~4時
会場 愛日会館 大阪市中央区本町4丁目7番11号
大阪メトロ  本町駅より徒歩5分
講師 手塚ファン「虫マップ」主宰(http://mushimap.com/)
田浦 紀子 (たうらのりこ)氏
演題 「手塚治虫と大阪」
漫画家・手塚治虫氏は、昭和3(1928)年、豊中市に誕生。5歳の時、宝塚市へ転居。池田師範附属小学校、北野中学校、大阪大学附属医学専門部へと進学し、漫画家として上京するまで約25年間を関西で過ごした。平成元(1989)年死去。
会費 1000円、学生500円(申込み、入会金、年会費、不要)
事務局 愛日会館 内(06-6264-4100)「船場大阪を語る会」 中嶋・白堀
船場大阪を語る会  会長 西岡 透

朝日新聞2018年5月12日 土曜版be みちのものがたり 手塚治虫を育んだみち

5月12日の朝日新聞土曜版beの6~7面「みちものがたり」に、宝塚の手塚治虫ゆかりの地の特集記事が掲載されました!3月に、手塚先生の弟の手塚浩さんとの取材に同行し、旧手塚邸、瓢箪池、蛇神社、千吉稲荷など、宝塚の御殿山界隈をめぐりました。手塚浩さんは少年のような目をして嬉々として「オサム兄貴」との思い出を語って下さいました。

記事では高台から宝塚の街を一望できる場所で撮影した手塚浩さんの写真が掲載されています。メイン写真は、手塚兄弟が「猫神社」と呼んだ千吉稲荷神社。田圃のあぜ道の先にこんもりとした緑の山の中に現れる赤い鳥居がアクセント。
拙著『親友が語る手塚治虫の少年時代』も書影入りで紹介されています。私のコメントとして宝塚時代の影響の作品の代表例「ゼフィルス」を挙げました。「宝塚で育んだ昆虫愛とともにささやかな暮らしが奪われる戦争の不条理が描かれています」
中野晴行さんの著書『手塚治虫のタカラヅカ』の引用とコメント、藤子不二雄Aさん(安孫子素雄さん)の「新寶島」「マアチャンの日記帳」へのコメントも。

実は5月12日は『親友が語る手塚治虫の少年時代』が発売された記念日です。一年前の今日、初めて自分の名前の本が全国の書店に並びました。そして、その発売記念日に朝日新聞に紹介記事が掲載されたのもまた何かのご縁かと思います。

(みちのものがたり)手塚治虫を育んだみち 兵庫県宝塚市 蝶にこがれたマンガの神様
2018年5月12日03時30分

朝日新聞社に無断で転載することを禁じる 承諾番号:18-2363

 

梢(こずえ)の葉を通して、日差しが降り注ぐ。閑静な住宅街が広がる兵庫県宝塚市。その高台に、開発からかろうじて逃れた千吉稲荷神社のこんもりした森が残っている。

「オサム兄貴が小学生のころ『クヌギの樹液に蝶(ちょう)やクワガタがたくさん集まっている』と教えてくれた。昆虫採集にとっておきの場所です」

オサム兄貴とは、後に「マンガの神様」と呼ばれる手塚治虫(1928~89)。思い出の一コマを語るのは弟の浩さん(87)だ。

手塚は4歳から約20年間、宝塚大劇場などを見下ろす御殿山で暮らした。自宅近くには緑豊かな山林や田畑が広がり、兄弟が瓢箪(ひょうたん)池と呼んだ池は水を満々とたたえていた。

「この神社で兄貴は大きな猫をみかけて、猫神社と名付けました。蝶が飛ぶ『蝶道』もあって、珍しい蝶を先に捕まえようと、競争に明け暮れたものです」。喧噪(けんそう)からも逃れた鎮守の森は、遠い日の子どもたちの歓声が聞こえてきそうな、懐かしい場所だった。

手塚が昆虫採集に目覚めたのは小学5年生のとき。級友の石原実さん(89)に『原色千種昆蟲圖譜(こんちゅうずふ)』(平山修次郎著)を見せられたのがきっかけだ。自伝『ぼくはマンガ家』で、手塚はこの図鑑との出会いを「ぼくは、俄然(がぜん)昆虫に魅せられてしまった。やがて三度の食事を一度にしてもというぐらい病みつきになり」と述べ、手元に置く「バイブル」の一冊にしていたという。

自宅の本棚には父親も好きなマンガが200冊並び、空想科学小説や海外文学の本がふんだんに置かれた。浩さんは「そんな環境もマンガを描き、兄貴ならではのストーリーを生み出すバックボーンになったのでしょう」と話す。

教科書やノートの隅にパラパラマンガを描いて遊んでいた手塚は、自作のマンガを回覧して級友を楽しませるようになっていった。虫好きが高じて、ペンネームには本名の「治」に「虫」をつけた。その名が誕生した日のことを級友の大森俊祐さん(故人)は、はっきりと覚えていた。

手塚が教室で図鑑のページをめくり、友人たちがのぞき込んでいるときだった。「オサムシ」という名の虫がいると知ったダジャレ好きなひとりが「それやったら手塚オサムシや」と口にすると、「ほんまや、ぴったりや」と教室がわきたったという。

「手塚君が黒板に、漢字で『命名 手塚治虫』と書きました」「彼はまんざらでもない顔をしながら、ニコニコ……」(証言録『親友が語る手塚治虫の少年時代』から)

旧制中学に上がると、ペン画のマンガも描き始めた。ヒゲオヤジなど、手塚作品の主な登場人物が次々に生み出されたのも中学時代だ。仲間と動物同好会を立ち上げ、昆虫図鑑の編纂(へんさん)にも取り組んだ。

その実物が公開されていると聞き、宝塚市立手塚治虫記念館を訪ねた。

「原色甲蟲(こうちゅう)圖譜」。そんなタイトルがついたノートの左ページには、大小さまざまなクワガタがびっしりと描かれ、右には解説文も。つやもある精密な絵で写真と見まごうばかり。いまにもノソノソとはい出しそうで、抜きんでた画力が伝わってくる。

太平洋戦争真っただ中で、マンガを手にすることさえはばかられた時代。勤労奉仕や勤労動員に追われたが、手塚は隠れてマンガを描き続け、才能を開花させていく。

念願のデビューは、敗戦とともに思いがけない形でやってきた。

 

■「きらめきや畏れ忘れない」

「マングワノ セカイニモ ヘイワガキマシタヨ。イママデノ センサウチュウノ アラッポイ マングワナンカデハ ナク……」

敗戦の翌年、1946年の元旦。毎日新聞社が発行する少國民新聞の大阪版に、「マァチャンの日記帳」の連載開始を告げるお知らせが、手塚の絵入りで載った。

このとき手塚は17歳。大阪帝国大学付属医学専門部で学んでいた。自伝で「興奮して、夜の明けるのが待ち切れなかった」と回想。駅売りの新聞を求めて何駅もはしごするが手に入らず、大阪市内でようやく買い求め、初めて印刷された自分の絵を見た。

「この道で苦しめられる運命の、きっかけの日であった」と書き、医師ではなく、マンガ家の道に進む引き金にもなったと打ち明けた。

自伝で手塚は、近所に住む毎日新聞社勤務の女性の紹介でデビューが決まったとしている。ところが、マンガ評論家の中野晴行さん(63)の著書『手塚治虫のタカラヅカ』によれば、真相は違う。手塚が編集幹部を父に持つ先輩を訪ね、マンガを新聞に載せてほしいと仲介を頼む。先輩は公私混同になるからと、手塚自らマンガに手紙を添えて新聞社に持ち込むよう助言。その結果、連載が決まった。中野さんは「編集部に才能が認められたのだが、手塚にはずるをしたような後ろめたさが残った。先輩やその父親に迷惑がかかっては、という気づかいもあって自伝の筆を少しだけ曲げたのではないか」と話す。

掲載紙は大阪を中心に北陸から四国までの地域で販売。連載は好評で、1カ月の予定が3カ月・73回に及んだ。

マァチャンに魅了された小学6年生二人組が富山県にいた。安孫子素雄さん(84)と藤本弘(1933~96)。後に藤子不二雄のペンネームで、「オバケのQ太郎」などを世に送ることになるコンビだ。

藤子不二雄(A)として活躍中の安孫子さんは、『手塚治虫デビュー作品集』への特別寄稿で、「今までの漫画の絵は、古くさく野暮(やぼ)ったく思えた。それほど新鮮で、チャーミングなタッチだった」と振り返る。

翌47年。冒険マンガ『新寶(たから)島』(原作と構成・酒井七馬、作画・手塚治虫)が刊行され、爆発的な人気となった。映画的な表現手法を取り入れ、その後のマンガに大きな影響を与えたとされる作品だ。だが、安孫子さんは同じ寄稿で、「『新宝島』が戦後の日本の漫画史で極めてエポックメーキングな役割を果たしたのは事実であるが、実はそのプロローグが『マァチャンの日記帳』だった」と記した。

マンガに囲まれ、宝塚歌劇に親しみ、自然にふれた幼少期から、戦火をくぐり抜けてデビューを果たすまで過ごした宝塚は、手塚作品の舞台にもなった。ゆかりの地を取材してウェブサイト「虫マップ」で紹介している田浦紀子さん(39)は、代表例として「ゼフィルス」(71年)を挙げる。

戦時下、裏山でゼフィルスと呼ばれる蝶を血眼になって追いかける中学生の物語。最後にその森はB29の爆撃によって焼失してしまう。「宝塚で育んだ昆虫愛とともにささやかな暮らしが奪われる戦争の不条理が描かれています」

弟の浩さんは、「感受性の豊かだったオサム兄貴は、野山で目の当たりにした大自然のできごとを通して、生命の神秘を感じ取り、敬虔(けいけん)な気持ちを育んでいたのかも知れませんね」という。

手塚はテレビインタビューでこんな言葉を残している。

「少年の日、その目に映ったきらめきや畏(おそ)れを今も決して忘れない」

虫取り網を手に夢中になって駆け回った御殿山に、マンガの神様の原点があった。

(文・進藤健一 写真・筋野健太)

 

■今回の道

戦前~戦中の兵庫県宝塚市の雑木林にはタヌキやキツネがすみ、昆虫の宝庫だった。宝塚少女歌劇が創設され、モダンなレビューの街ともなっていった。

中学時代の手塚治虫が昆虫採集の記録をつづった「昆虫手帳」には、主な採集地を独自の呼び名で記している。地元の野山は住宅地に変わったが、「猫神社」や「瓢箪池」などが当時の様子をとどめ、手塚が大好きな蝶を追いかけた道の痕跡もたどれる。

◇◇◇◇

マンガ文化に大きな足跡を残した手塚の業績を記念する手塚治虫文化賞(朝日新聞社主催、宝塚市など後援)。2018年(第22回)のマンガ大賞には野田サトルさんの『ゴールデンカムイ』が選ばれた。贈呈式が6月7日、東京・浜離宮朝日ホールである。

 

■ぶらり

宝塚散策の起点はJR宝塚駅と阪急宝塚駅。宝塚大劇場に続く「花のみち」を歩き、資料や映像で手塚ワールドを満喫できる宝塚市立手塚治虫記念館(電話0797・81・2970、大人700円~小学生100円、水曜休館)=写真=へ。少年期の宝塚のジオラマ展示で往時をイメージし、「昆虫手帳」をもとに作製した「たからづかワンダーマップ」をもらって、手塚ゆかりの地にいざ出発! JR宝塚駅東側の踏切を北へ渡り、道なりに坂を上ると、10分ほどでマンションが正面に立ちはだかる三差路に。その手前を右に折れればクスノキの大木=写真=が目印の旧手塚邸だ。手塚作品「新・聊斎志異(りょうさいしい) 女郎蜘蛛(じょろうぐも)」では、このクスノキの精が現れ、伐採を思いとどまらせる。隣にはタカラヅカの大スターだった天津乙女、雲野かよ子姉妹が住んでいたという。

三差路を逆に西進して、しばらく歩くと右手に田んぼが見える。奥にある赤い鳥居が、手塚兄弟が昆虫採集に明け暮れた「猫神社」(千吉稲荷神社)だ。

再び旧手塚邸に戻り、左に曲がって坂道を上り、右に折れた先からは市街地を一望できる。「昔は雑木林で蝶の通り道でした」と弟の手塚浩さん=写真。北に進むと手塚が瓢箪池と呼んでいた下ノ池。道を隔てた御殿山公園も、かつては池だった。北上すると、短編「モンモン山が泣いてるよ」の舞台「蛇神社」だ。

 

■読む

『親友が語る手塚治虫の少年時代』(和泉書院、税込み1890円)=写真=は、ともに学び、戦争をくぐり抜け、生き抜いてきた仲間たちの証言録。編著者は「虫マップ―手塚治虫ゆかりの地を訪ねて―」をネットで公開している田浦紀子さん、高坂史章さん姉弟。

 

■味わう

阪急宝塚駅前の和菓子店「きねや」には、乙女餅を食べるアトムのイラスト=写真=が飾られている。宝塚歌劇の乙女にあやかって売り出された。短冊に切った求肥(ぎゅうひ)に黄な粉をまぶした餅でほんのり甘い。10個入り税込み1150円。

 

■読者へのおみやげ

手塚治虫記念館で購入した「リボンの騎士」のクリアファイルとストラップをセットで10人に。住所・氏名・年齢・「12日」を明記し、〒119・0378 晴海郵便局留め、朝日新聞be「みち」係へ。17日の消印まで有効です。

 

◆次回は、西田幾多郎が若き日に過ごした山口県の「哲学の道」の原風景をたどります。

 

毎日新聞(大阪版)2018年1月19日夕刊「舞台をゆく・適塾」

1月19日の毎日新聞(大阪版)の夕刊7面に適塾の取材記事が掲載されました。
年末に大阪大学適塾記念センターの松永和浩さんと私が取材に同行し、動画も撮影しました。
緒方洪庵に向かって緊張しながら挨拶する手塚良庵の姿が描かれた客間と、塾生大部屋でそれぞれ解説しています。

舞台をゆく  青き大志 育む揺りかご 適塾(大阪市中央区)=手塚治虫「陽だまりの樹」

 

大阪大学適塾記念センターの松永和浩先生と。

毎日新聞夕刊(大阪版)2018年1月19日(金)「舞台をゆく・適塾」

 

今年は手塚治虫(1928~89)の生誕90周年。後期の代表作「陽(ひ)だまりの樹(き)」は曽祖父の蘭方医、手塚良庵(後に良仙を襲名)を主人公に、幕末の激動期をたくましく生きる人びとを描いた物語だ。良庵が学んだ大阪の蘭学塾「適塾」は手塚の母校、大阪大のルーツでもある。福沢諭吉、大村益次郎ら多彩な人材を生んだ学びやをしのびに訪ねた。【反橋希美】

 お調子者で女性にだらしないが、患者と向き合う姿勢は真剣そのもの--。人間味あふれる医師として描かれる良庵は、常陸府中藩(茨城県)の藩医の息子として江戸で生まれ育つ。適塾入門は1855(安政2)年。その後は江戸で種痘所開設に尽力し、西南戦争に医師として従軍後、病死した。物語は良庵と、その盟友で倒れゆく幕府に忠誠を誓う架空の武士、伊武谷(いぶや)万二郎を軸に展開する。

 昨年末、大阪大適塾記念センターの松永和浩准教授(39)、手塚ファンで作品ゆかりの地を紹介するサイト「虫マップ」(http://mushimap.com)を運営する田浦紀子さん(39)と現地へ向かった。大阪・北浜のビル街にある町家は、良庵が「夢に見たアノ適塾!!」と興奮した外観そのものだ。今の建物は解体修復後の1980年5月に公開され、その約1年後の81年4月に連載が始まった。このタイミングを奇貨とし、綿密な取材を基に数々のシーンが描かれたことがそこここで分かる。

 適塾は、医学書の翻訳や種痘の普及と多大な業績を残した蘭方医の緒方洪庵が開いた。応接間に入ると目に入るのが、ドイツの医学書を重訳した書「扶氏経験遺訓(ふしけいけんいくん)」(複製)。「勉強に身が入らない良庵に、洪庵が1カ月貸し出すから暗記するように諭す場面がありました」との田浦さんの言葉に、「全30巻あるから大変でしょうが、蘭学者は皆読みたがったそうです」と松永さん。そういえば作中、史実でも良庵と同窓生だった福沢諭吉が「うらやましいぞッ」と詰め寄っていた。

 奥の客座敷は、良庵が緊張しながら洪庵にあいさつする場所だ。床の間の「扶氏医戒之略(ふしいかいのりゃく)」は先述の「扶氏~」で医師の心がけを説いた部分を抄訳した文章だが、洪庵自ら実践したという。松永さんは「名利を顧みず己を捨て人を救わんことを願うべし、と崇高な理想が書いてあります」と解説する。

 作中で何度も良庵が転げ落ちた急な階段を上ると、2階には塾生の大部屋がある。現在は27畳、大正期の「軒切り」(家屋縮小工事)前は32畳だったといい、塾生は1人1畳の空間を与えられ寝起きした。シラミは「塾中永住の動物」で身なりの立派な塾生は少ない。だが勉学には真面目で、蘭書の会読がある前日には塾に1冊しかない蘭和辞典に皆が群がる--。福沢の自叙伝「福翁自伝」で回想される生き生きとした様子は、「陽だまり~」にも生かされている。

 「武士に限らず誰をも受け入れたうえ完全な実力主義で、寝る場所も成績で決める。『自主自立』が適塾最大の特色でした」と松永さんが言うと、田浦さんは「全国各地の若者たちが切磋琢磨(せっさたくま)していた姿を思うと、改めて向上心を持つ大切さを教えられる気がしますね」。

 適塾の名は、洪庵の号「適々斎」に由来する。「己の適とするところを適とする」との意味通り、信じる道へ進む若者を育む気風は今の大阪にもあるか。隣接する公園から塾を見守る洪庵像を見上げ、自問した。

 

忘れ得ぬこだわりと執念…手塚治虫の元アシスタント 野村正さん(61)

私が手塚プロダクションに入社したのは1982年で「陽だまりの樹」の連載中でした。手塚先生は週刊誌の連載をいくつも抱えていたので、昼と夜にそれぞれ10人ほどのアシスタントが作業しましたが、締め切りは守れない。先生のためだけに、印刷所が夜中も輪転機を待機させていました。

多忙の中でも、作品へのこだわりは妥協がなかったです。「陽だまり」の資料は段ボール2、3箱あったでしょうか。背景は資料写真を見ながらアシスタントに指示を出すのですが、複雑な背景を描く時は直接ペンを入れる時もありました。本当は全部自分でやりたいんです。1巻目の単行本を出す時、あるシーンのはかまの柄が史実とは違うということになり、深夜にアシスタントを集めて描き直したこともありました。「これが巨匠の現場なんだ!」と驚きましたね。

亡くなる前も病院のベッドの下に原稿を隠して仕事していました。その時の鬼気迫る姿はものすごくて。先生にたった一度だけほめてもらったことがありますが、その時の筆を運ぶ感覚が今も私の指針です。

 

アクセス
京阪電車、地下鉄御堂筋線「淀屋橋駅」から徒歩5分。
*午前10時~午後4時。月曜休。参観料は一般260円、高校・大学生140円、中学生以下無料。

 

読売新聞よみほっと日曜版「名言巡礼」2017年11月19日

読売新聞2017年11月19日のよみほっと日曜版(東京本社版)の「名言巡礼 マンガの神様 生命見つめ」で、千吉稲荷神社など、宝塚の手塚治虫ゆかりの地が取り上げられています。(文・西條耕一 写真・岩佐譲)
2面で、拙著『親友が語る手塚治虫の少年時代』が引用されています。


手塚治忠?手塚泣虫?
手塚治虫が死去してから30年近くたつが、今もマンガの復刻版だけでなく、往年の手塚について書かれた著書が数多く出版されている。
今年4月に出版された「親友が語る手塚治虫の少年時代」(和泉書院)は、宝塚など手塚ゆかりの地を研究する田浦紀子、高坂 史章さんの2人が編著者。手塚の弟・妹や、宝塚時代の同級生の講演などから手塚の若い頃のエピソードを数多く集めた労作だ。
中でも、手塚の同級生の話として、本名の「治」からペンネームを「治虫」にした詳細な経緯が面白い。
小学4年の時、昆虫図鑑に載っていた、目玉が大きくてひょろ長いオサムシを見た級友が手塚の顔つきや体形に似ていたと思ったのか、「手塚オサムシや」と冗談を言い、手塚が意気揚々と「命名 手塚治虫」と黒板に書いた、という話が披露されている。
手塚は「治虫」を「じちゅう」と読まれるのを嫌った。また、手紙の宛名が何度も「手塚治忠様」で来るのに閉口したという。出版物にも名前の誤植は数多く、自伝によると、ある新聞が「手塚泣虫」と書いたことがある。それが所得番付の記事だったらしく、「いくら税金で泣かされているとはいえひどい」という笑うに笑えない逸話も。
今年は国産アニメが日本で公開されてからちょうど100年。来年は手塚生誕から90年となる。マンガやアニメの作品だけでなく、こうした著書を通して手塚への関心が高まることを期待したい。

【読売オンライン】手塚治虫「ガラスの地球を救え」

【動画】名言巡礼 手塚治虫「ガラスの地球を救え」から 兵庫県宝塚市

 

11月23日(木・祝)お茶べりBOOKサロン@大東市立公民館

日程 11月23日(木・祝) 14時00分〜16時00分
場所 大東市立総合文化センター(サーティホール)こみってぃさろん
内容 漫画の神様・手塚治虫に関する本を持ち寄り、手塚漫画の魅力について語り合います。ゲストによるトークもあり。
ゲスト 田浦紀子(『親友が語る手塚治虫の少年時代』編著者)
協力 大東市立中央図書館
対象 どなたでも
定員 10人程度
費用 300円(飲み物、お茶菓子つき)
その他 本をお持ちでなくても参加可。
申込み11月7日(火)より電話か来館
【申込・ 問合せ 問合せ 】
大東市立 公民館 (指定管理者 アステム )
〒574-0037 大東市新町13-30
大東市立総合文化センター3階公民館事務室
電話072-873-3522

大東市立公民館のイベントページ

チラシPDF版

【開催レポート】11/23お茶べりBOOKサロン@大東市立総合文化センター