◆インタビュー 野村正さん

―手塚先生のアシスタントになったきっかけを教えてください。

私は出身が新潟で、東京の武蔵大学に進学しました。漫画家になりたくて、大学の頃は漫画研究会にも入部していました。大学を卒業後、田舎の新潟に戻って二年間仕事をしていましたが、『週刊少年チャンピオン』に連載されていた『七色いんこ』の「アシスタント募集」の記事を見て手塚プロに応募しました。手元にあった自分の漫画原稿を手塚プロに提出したところ、まもなく「面接に来てください」と連絡がありました。一次選考が通り、その後「手塚先生が直接面接をする」と電報が来ました。しかしその後「延期します」との連絡。それが2回ありました。先生が締め切りに追われて多忙だったために、3回目でやっと手塚先生に面接していただけました。面接で憧れの手塚先生に初めて声をかけられた時は天にも昇るような気持ちでしたね。先生は「これからどんな漫画を描いていきたいのか」「できれば二年くらいで漫画家として独り立ちできるように」など、手塚プロ入社の心構えを話されました。
1982年5月の入社で、同期は出雲公三、関口武美、阿部高明。ゴールデンウイークに手塚プロに行ったら、阿部さんは先にアルバイトで入社していました。手塚先生は、面接の時点で、僕たちに決めていたんですね。受かった5人のうち一人はすぐに漫画家としてデビューが決まったので、手塚プロ入社を辞退されました。

―最初に手掛けられたのは、『陽だまりの樹』の単行本化の修正作業だったそうですね。

「三百坂」の登城シーンですね。袴の柄が史実と違うからと、全部アシスタントに直させたんです。「貴方達に任せていたらダメだ」と手塚先生が怒って、チーフの福元さんが寝ているところを電話で呼び出されていました。僕は入社したばかりで、“掛け網”もまだ描けなかったから、漫画の現場の凄まじさを感じました。

 

―『アドルフに告ぐ』や『陽だまりの樹』の作画でアシスタントとしての技術を磨いていかれたわけですね。

とにかく経験すること全てが新鮮でしたね。初めての体験を『アドルフに告ぐ』でさせてもらいました。ペンの走らせ方など技術を習得する時期なので、描いている時は苦しくても、自分の技術が上達するのが嬉しい。仕事が突然動き始める時の高揚感を手塚先生の傍で味わえることが幸せでした。

―作画で苦労されたことはどんなことですか?

『アドルフに告ぐ』の時代に登場する車はほとんどドイツ製のベンツですよね。車でもいろんな型があり、製造年で窓の形も違う。時代考証もきちんとしなければいけない。資料を探しても、なかなかその時期の型にめぐり合わないわけです。別の型を描こうとすると「これは何年製造だからダメ」と。車ひとつでも正面、斜め前、後ろなど様々なアングルで描かなければいけないので苦労しました。

第1章 ベンツが様々なアングルで描かれている。 ©手塚プロダクション

―資料探しにも野村さんが行かれたこともあったのですか?

『ブッキラによろしく!』でピアノのお化けが出てくるでしょう。ピアノの内部が解らないからということで探しに出かけました。百貨店にグランドピアノが置いてあるのを思い出して行ったけれど、お店なので写真は撮らせてもらえなかった。それで小学校に行ってお願いしたら簡単に写真を撮らせてもらえましたね。

―手塚先生との思い出やエピソードを教えてください。

昼のチーフが福元一義さんで、夜のチーフが伴さんだったのですが、朝、福元さんが出社して伴さんと交代する時「今日の先生の機嫌はどう?」って聞くんです。手塚先生は、結構短気だったので、漫画の制作中は気を遣いました。でも、一旦漫画から離れると優しくて、4階から2階に降りて来て、僕らとニコニコ世間話をしたり、テレビを見たりしていました。
めったにありませんが、年に二回くらい時間が空いた時に漫画教室をやってくれました。基本的な漫画の描き方から効果的な演出方法、それから「電車の中では外の景色を見ましょう」とか「旅行に行ったら街の観光案内板もきちんと見ましょう」とか。あと、「こういう本を読みましょう」と勧められたのが、エドモン・ロスタンの戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』でした。ストーリー構成が素晴らしいんです。『七色いんこ』にも『シラノ・ド・ベルジュラック』のエピソードがありますよね。

―野村さんは手塚先生が亡くなるまでアシスタントを務められたそうですね。

1988年11月3日に手塚先生が制作した「笑い」の像が展示された川崎市民ミュージアムの記念式典があったんです。ちょうどその日は手塚先生のお誕生日でアシスタントの皆でお祝いをしました。すでに病気も進行していて、先生の体調もすぐれなかったのですが、先生が帰りのバスの中で、お年寄りに席を譲るような気遣いをされていたのを見て驚きました。

手塚先生が亡くなる直前の病院での様子は、とにかく鬼気迫るものがあり、漫画に対する執念を感じました。ガウンの上から骨が出っ張っているのがわかるくらい痩せているんです。でも、夜中の2時、3時に漫画を描いている。原稿用紙が医者に見つかるとまずいので、ベッドの下に隠していました。僕らは表玄関から入れないから病院の裏口から入って『ルードウィヒ・B』『グリンゴ』『ネオ・ファウスト』の原稿を受け渡ししていました。
先生は、最後まで少年漫画に拘っていました。大人漫画と幼年漫画は苦労せずに描けたけれど、少年漫画は試行錯誤、悩んでいましたね。『ブッキラによろしく!』の時などは、アシスタント皆に意見を聞いていたりしました。

―野村さんはその後も最近まで手塚プロダクションに勤務されていましたね。

手塚先生が亡くなって2か月後に退職したのですが、その後も手塚プロの仕事をたくさんやりました。42歳で手塚プロに再び入社し、60歳まで務めました。僕は漫画化としてデビュー出来なかったこともありますが、何よりも手塚先生が好きだったんです。漫画家になるよりも先生の傍にいたかったんですね。

(2018年5月30日取材)

野村正(のむら・ただし)
1956年新潟県生まれ。子供の頃、手塚治虫の漫画を毎日一コマずつ模写するのが日課だった。大学を出て地元の企業に勤めていた時にアシスタントに応募。面接の際に手塚先生が最初にかけてくれた「あなたはどんな漫画が描きたいですか?」は忘れられない一言。1983年手塚プロダクション入社。手塚先生が亡くなるまでの6年半アシスタントを勤める。携わった手塚作品は『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』『火の鳥(太陽編)』『ユニコ』『ミッドナイト』『ル-ドウィヒ・B』『グリンゴ』『ネオ・ファウスト』など。手塚先生没後の主な仕事は、高田馬場駅の壁画(東京都)、除痘館想像図(大阪府)、若洲海浜公園の風車壁画(東京都)など。