◆インタビュー 木本佳子さん

―手塚先生のアシスタントになったきっかけを教えてください。

どうしても漫画家になりたくて、中学生の頃から『別冊マーガレット』に投稿していました。その後、少年漫画に憧れ『週刊少年チャンピオン』に投稿。作品を見てくださった編集さんがお手紙をくださり、新しい作品を持って東京に。お手紙をくださった編集さんがいらっしゃらなくて、たまたま副編集長だった菊池さんに、作品を見ていただきました。その菊池さんの勧めで手塚先生のアシスタントに応募しました。1983年入社で、同期は吉住浩一、福田弘幸、坪田文太山本広志。私は女性だったので、基本的には徹夜禁止でした。なので、夜のチーフの伴さんと一緒に仕事することはありませんでした。でも昼のチーフの福元さんが徹夜する日は私も残ってOKだったんです。福元さんの隣の席だったので、いろいろ教わりました。

―『アドルフに告ぐ』への手塚先生の意気込みが感じられるエピソードはありますか?

物語の中盤で、これが伏線だったのか!と、びっくりしたのを覚えています。先生はネームをきっちり描くやり方ではなく、原稿は1ページずつ出てくるのですが、『陽だまりの樹』の時のエピソードなんですが、1ページ目が出たと思ったら、今度は最終ページが出てきて、最終的には辻褄があうように仕上がるんです。井上さんと「先生の頭の中はどうなっているんだろう?」と話したことがあります。『アドルフに告ぐ』は最終回までの物語の構成が、もう全て先生の頭の中で出来上がっていたんだなと思います。
先生は自分が出来ることはみんなも出来ると思いこんでいました(笑)。溢れるように出て来るアイデアに描くスピードがついていかなかったんだと思います。ある程度のスピードで連載していくために、多くのスタッフの手を借りてやっているけれど、それでも追いつかなかったんでしょうね。

―ご自身が関わった頁を覚えていらっしゃいますか?

あまり上手くなかったので、大きな背景は描かせてもらえませんでした。でも、チーフの福元さんの隣の席だったので、細かい仕事をたくさんやらせて頂きました。
『アドルフに告ぐ』がまだ単行本化される前に、刷り出しのゲラをまとめていたのですが、「前に描いたあのシーンを参考に」と、先生の注文がよくあったので、すぐに探し当てられるよう、読み込んでいました。

―制作で苦労したエピソードを教えてください。

ベンツが上手く描けなくて、何度も書き直しになった事がありました。車やドイツの建物が苦手で、手が空いている時は、すっとバックの練習をしていたのを覚えています。

―『陽だまりの樹』(小学館)や『週刊少年チャンピオン』の作品など、同時期に描かれた作品について思い出があれば教えてください。

私は『アドルフに告ぐ』よりもどちらかというと、『陽だまりの樹』の方の記憶が多いです。こちらの作品でも、先生の神エピソードがたくさんあります!『アドルフに告ぐ』は10ページだったので、タイミングが合わないと、その週の作品に関われなかった時もありました。『火の鳥(太陽編)』や『ブッタ』、『ブラック・ジャック』の読み切り等に関わることが出来て嬉しかったです。

―『アドルフに告ぐ』が単行本化した後に感じたことはどんなことですか?

『週刊文春』で毎回10ページの連載でしたが、10ページでもちゃんと完結し、単行本になれば、10ページの連載だったと感じさせないところが、やっぱり「漫画の神様」だなと、思いました。単行本にする時、先生は必ず修正したり描き足しをします。10ページの作品のタイトルを全部取ったり、描き足したり、切り貼りしたり…とても大変でしたが、単行本が出た時は本当に感動しました。

―手塚先生のエピソードで印象に残っていることはありますか?

私は三年間アシスタントを務めましたが、辞める三か月前から、名前で呼んでくれるようになりました。それまでは「彼女」と呼ばれていました。女性は私一人だったので、名前を言う必要がなかったのでだと思いますが、初めて言われた時は、すごく嬉しかったです。
『スコラ』という雑誌の取材があった時、アシスタントは私一人しかいなくて、取材中先生がとても優しくしてくださったのを覚えています。白黒の写真が載ったんですが、先生とのツーショットに興奮しました。
先生はお忙しい中、私がいた三年間で2回「漫画教室」を開いてくれました。「漫画家としてデビューして欲しい」先生の気持ちが伝わってきました。

木本佳子(きもと・よしこ)
静岡県浜松市生まれ。1983年、静県県から上京、手塚プロダクションに入社。漫画制作部に配属、『アドルフに告ぐ』『陽だまりの樹』『火の鳥(太陽編)』『ブッダ』などの制作アシスタントをする。ちょうど三年目に『週刊少年サンデー』でデビューし退社。『月間少年サンデー』『ビックコミックオリジナル』『猫の手帖』などで連載。2016年、先輩の上野義幸さんと『北國新聞』で『アトムとピノコがやってきた』を一年間連載。

(2018年6月17日取材)

手塚プロ退職時に手塚先生よりいただいた色紙。

※ヤフーオークションで、手塚治虫先生のサイン色紙と酷似した贋作が販売されていました。こちらのサイン色紙は本物です。画像のトレース作品の作成・販売は固くお断り致します。