仁川の一里山健民修練所跡地

登場手塚作品:『紙の砦』

伴俊男『手塚治虫物語』より ©手塚プロダクション

昭和19年(1944)年の夏、体重が基準に満たない体格不良の者が集められて、一夏、仁川の一里山健民修練所で団体生活を送った。北野中学50人と堺中学(現三国ヶ丘高校)50人の計100人が、二階建ての日本家屋の八畳くらいの和室に、五年生の分隊長が一人、四年生が五人、三年生が四人というように、十人ずつ入って共同訓練を受けた。(三島佑一著『昭和の戦争と少年少女の日記』より)

三島佑一著『昭和の戦争と少年少女の日記』(東方出版・1995)より。 後列右から2番目が三島さん。

仁川一里山健民修練所は、手塚の戦争体験を描いた「紙の砦」で教官ににらまれた生徒が送られる「特殊訓練所」として描かれている。一日中規律に縛られた生活に粗末な食事。『ガラスの地球を救え』では修練所の生活に耐えられずに、夜中に抜け出して宝塚の自宅まで戻ってお腹いっぱいご飯を食べてまた修練所まで戻ったと綴られている。この一里山健民修練所で、手塚は、水虫の一種である糜爛性白癬症(びらんせいはくせんしょう)に罹り、1週間くらいで治療のため自宅に戻ることになった。一時は腕を切断する寸前まで病気が悪化したため、一里山健民修練所は、手塚にとって全く良い思い出の無い場所だったのであろう。

ちなみに、北野中学時代の同級生・広瀬禎男さんの話によると、手塚は腕を悪くする前、仁川の合宿生活で、同級生の寝姿を大きな紙にスケッチしたそうである。足を出したり手を曲げたりしていた寝姿を「滑り込みセーフ型」とか「ラグビートライ型」など題をつけて、壁に貼っていたという。朝、舎監が来て、絵を描いたことを怒られると構えたが、「手塚、こんな描いていたら夜、寝られないやないか」と、逆に笑ってしまったそうである。

一里山健民修練所の跡地は現在は、老人ホーム「一里山荘」となっている。