【インタビュー】伴俊男さん 2014年7月21日

「手塚治虫物語」に描かれた手塚治虫の少年時代について

伴 林久男さんは手塚浩さんと昆虫のお仲間でしたね。

田浦 林久男さんは『動物の世界』と『昆蟲の世界』を北野高校に寄贈され、今、六稜会館にあります。北野中学といえば、伴さんの「手塚治虫物語」で仁川の一里山健民修練所の描写が非常にリアルですが、どなたか北野中学の同級生の方に取材されましたか?

伴 「手塚治虫物語」は、手塚先生の自伝などの引用と、北野中学の同窓生の文集『北野中学の憶い出』を手がかりに電話取材などをしました。仁川の健民修練所については最高裁事務総長だったか、すごく偉い人への取材もしましたね。

田浦 池田附属小学校(通称・池附)の校舎の描写もリアルですが、このあたりも資料からですか?

伴 池田附属小学校は資料本を買いました。これもできたばかりの新校舎(城南校舎)の写真がありました。基本的には写真資料を元に描いています。「手塚治虫物語」は単行本にする時に大幅に追加取材したり書き加えたりしています。大阪に行って買ってきた資料で書き加えた覚えがあります。

田浦 手塚先生が通った池田附属小学校の建石校舎は、今は池田文庫に、城南校舎は市立池田病院になっています。

伴 池附は変わったんでしたっけ?

田浦 変わりました。事件があった関係で、建物もすべて建て替えになりました。アトム像がある場所も、一般の人が立ち入れる場所ではないので、許可を得て入りました。これは手塚先生の池附での最後の講演会で描かれたイラストです。

伴 先生の講演では、模造紙に先生がばばっと描くんですよね。

田浦 池附の講演ビデオを持っています。昭和63(1988)年10月31日に、豊中第三中学で講演して、11月1日に池附で講演。その間、一度東京に戻っているんですよね。

伴 昔から先生はフットワークが軽かったですね。あんなに忙しい人なのにね。

 

伴俊男さんご自身のことについて

田浦 伴さんは、手塚プロダクション入社は何年ですか?

伴 手塚プロには二度勤めています。最初は昭和49(1974)年から二年間と、もう一度は1979年から先生が亡くなられた後までです。最初の二年間は正規のアシスタント、次は契約社員でした。僕はあしかけ12年ほどもアシスタントとしてお世話になったわけですが、これは先生のアシスタントとして異常に長いです。長いからといって先生に気に入られていたとかそんなことは全然なくて、長くアシスタントをするのは駄目なんです。あくまで漫画家として独立するために勉強するというのが先生のアシスタントのスタンスですから。そこを長く置いてもらった事をとても感謝しています。田浦 1974年というと「紙の砦」や「ブラック・ジャック〜アリの足」が描かれた年ですね。

伴 「ブラック・ジャック〜アリの足」って障碍を持つ少年が歩き通す話ですね。それはお手伝いの現場にいました。「紙の砦」はお手伝いしていないですね。まだ手塚プロに入っていなかったと思います。

 

「紙の砦」のエピソード 終戦の日を迎えた旧阪急梅田駅コンコースについて

伴 ここはコンコースなんですか。阪急のシャンデリアなんですよね? 「手塚治虫物語」は、阪急百貨店デパートのシャンデリアの写真を探して描いています。

田浦 伴さんのこの絵の描写は、それ自体は正しいんです。ところがこれも手塚先生一流のフィクションなんです。終戦当時シャンデリアはなかったはずなんです。当時、金属回収令でシャンデリアは回収されていたんです。手塚先生は終戦の日の話は同じエピソードを3~4回描いてはいるんですが、実際に阪急百貨店のことを書いた初出誌は『COM』1968年1月号収録「ぼくのまんが記 戦後児童まんが史1」です。この絵のシャンデリアは、手塚先生が記憶のみで描いているので実物と似ているようで似ていません。

伴 たぶん、手塚先生のイメージの中ではまぶしく輝いていたでしょうね。

田浦 「紙の砦」と「ブラック・ジャック〜アリの足」のラストも梅田阪急百貨店の南端。ここに著名な建築家・村野藤吾が設計した梅田吸気塔があります。二つは実は同じ場所なんですね。この背景画もアシスタントの方が描かれたのでしょうか?

伴 僕もその時、制作現場にいたので推測はできるんですが、今はちょっとわからないです。当時の漫画部の資料があるんです。漫画部の参考資料は恐らく手塚先生が集められた本が多くて、初期の昭和30年代の作品からの参考に使われた写真集などたくさんありました。あれがまだ残っていれば探すことは可能です。でも、もう無いんじゃないかな。作り付けの本棚にありました。

「日本地誌」ってわかりますか? 日本各地の各県を記者がまわって、面積、人口、伝統、行事などを写真で紹介した本。これを手塚プロの資料としてよく使いました。でもそれは昭和30年代発行だから、梅田吸気塔はもっと新しいものですね。なので、その後に買い足したものです。漫画部の資料として大阪を紹介した大判の本もありました。ここにどういう絵を描いてというのは、すべて先生が指示します。

田浦 本はどれだけ昔のものであっても、出版社、発行年、書籍名さえわかれば調べられます。

伴 そこまで覚えていないですね。漫画部の資料を見れば「あ、これだ」ってわかりますが。

 

「アドルフに告ぐ」について

田浦 手塚先生の後年の代表作といえば「アドルフに告ぐ」です。主人公の二人のアドルフの年齢は、実は手塚先生と同じ年齢設定になっています。主な舞台はドイツと神戸ですが、宝塚や大阪など手塚先生ご自身にとって思い出深い場所も描かれていますね。実在の地域や建物などが作品の舞台となっていますが、手塚先生ご自身が、当時、取材旅行に行かれたのでしょうか?

伴 手塚先生が特に関西に取材に行かれたという事は僕は知らないです。ただ…アドルフの時、先生が背景の指定をしながら珍しく「僕の子供の頃の街なんだ」という意味のことをポツリとおっしゃっていました。何か思い出されていたのでしょうか。

田浦 神戸三宮のそごうなどは描写が非常にリアルですね。現在のそごうの建物は、壁を上から張っているんですね。外装は変わっていますが、建物は昔のままで、阪神三宮駅の改札に降りる階段などは、「アドルフに告ぐ」に描かれた装飾がそのままあったりします。神戸水害についても、報道写真があり、それとそっくりですね。大丸やすずらんの街灯のある元町商店街の描写などもモデルがあります。クラブ・コンコルディアは、現在その地にクラブ・コンコルディアの碑があります。

伴 よく同じ形の写真が出てきますね。「アドルフに告ぐ」は、神戸に実際に行ってロケしたわけじゃないと思います。先生はそんな時間はなかったのじゃないかな。文藝春秋の編集者からの資料の差し入れもあったと思います。資料がなくて大変だったのは、本からの切り抜きが小さくて困ったのが、ポーランドのユダヤ人神学校でした。パン屋のアドルフ・カミルに母親がヨーロッパの状況を話しているところですね。他にも最後のほうで出てくるユダヤ人協会は、資料が無いので全然関係ない写真を使っちゃった、と手塚先生も「あとがきにかえて」でおっしゃっていましたね。

田浦 「アドルフに告ぐ」は建物が非常にリアルですね。1920~30年代当時の写真は、ネガ代が高いので、報道写真や絵葉書など、初出が限られてくるんですね。ということは、先生が1冊にまとめられた本をごっそり買ってそれを参考にしているはずです。峠草平が自転車で橋を疾走するシーンは、大阪・心斎橋の戎橋の焼野原の写真が、そのまま描かれていますね。有馬温泉などはパンフレットからでしょうか。芸者絹子のルーツを探るために、アドルフ・カミルと小城先生が訪問する有馬温泉のシーンは、実際は宝塚温泉の写真がモデルになっています。

伴 そういう場所設定の差し替えはよくやりますよ。

田浦 アドルフ・カミルと小城先生の石段のシーンなどは、実在の有馬温泉の石段そのまま。面白いのは、樹木が30年分成長していることです。カウフマン邸は、風見鶏の館、萌黄の館、シュウエケ邸ですね。どなたか神戸の街を撮影したということはありません?

伴 アシスタントは誰も行っていません。文藝春秋の編集の方か資料ですね。

田浦 カウフマン邸は、伴さんも描かれていますか?

伴 カウフマン邸の家の中もたくさん描きました。でも、具体的にどれを描いたかはよく覚えていないです。全部写真を見て描いているわけではありません。ゲラ(前の印刷物)を見て描くんです。ひとつ詳しいモデルがあれば、それをもとにしてスタッフは手分けして描きます。

田浦 カウフマン邸が最初に出てくるのは、少年の本多芳男がお父さんの本多大佐に連れて来られ、少年アドルフに挨拶するシーンですね。

伴 「アドルフに告ぐ」の連載が始まる一番最初に文藝春秋の方と一緒にドイツのベルリンオリンピックの記録映画「民族の祭典」を、アシスタント全員で見に行きました。どこでも上映していないんですが、特別な場所で上映していただいたんです。あの映画を見たからといって背景を全部描けるわけじゃないんですが、気分高揚のために皆で見に行きました。

 

「どついたれ」について

田浦 手塚先生の戦争体験が描かれた自伝的作品といえば、「どついたれ」もありますが、これも制作に携わっていました?

伴 1979年に手塚プロに戻りましたので、「どついたれ」も最初の頃から関わっていました。『週刊ヤングジャンプ』の創刊号から載ったのかな。

毎日新聞社の『1億人の昭和史』に、空襲などの特集号があり、「アドルフに告ぐ」や「すきっ腹のブルース」などでも参考にしました。大阪空襲だけでなく、神戸空襲や東京大空襲などの写真も掲載されています。爆発や炎上する様子は何度も描かされました。写真がいっぱい掲載されているグラフ誌を参考にしました。写真がないとアシスタントは描けないですからね。

田浦 「どついたれ」は曾根崎警察署が出てきたり、堂島川に原稿を投げ入れるシーンがあったり、大阪の街の描写がたくさん出てくるんですよね。

伴 大阪城…こんな焼野原に見えたんですね。大阪が空襲で炎上するシーンは僕が描いていたように記憶しています。「どついたれ」なんて見るの何年ぶりだろう。10年ぶりくらいじゃないかなあ。「どついたれ」は全集に入らなかったんですよね。完結していないので。

田浦 でも、あとから全集に入りましたよね。第4期で。「どついたれ」は、未完だし、すごく泥臭くて、犯罪とかエロとかを描いていて、手塚先生の中では試行錯誤だったんでしょうね。ちょっと無理をしている感じがします。逆に「紙の砦」や「アドルフに告ぐ」は迷いを感じません。メッセージ性が全くブレていないですよね。史実とフィクションを巧妙に織り交ぜるのは、手塚先生の得意なストーリー展開なんですが、「アドルフに告ぐ」みたいに俯瞰的な視点で群像劇を描けるのは、手塚先生が戦争中は未成年で、空襲体験などはしていても、軍隊に入隊して実際の戦争に行ったわけではないからだと思うんです。だからこそフィクションゆえのリアリティある戦争を描けるというか。本当に戦争に行っていたら、辛すぎてかえって描けなくなってしまうと思うんですよね。

伴 僕の母親は手塚先生の一つ上で、僕が小さい頃はたまに戦争の話をしました。食べるものが無くてその辺の野草まで食べたこと、親戚兄弟が多かったけど戦争でほとんど亡くなったこと。父親は大正生まれでしたが、ビルマに兵隊に行きました。奇跡のように無事に帰ってきたのですが、戦争のことは全然話しませんでした。「アドルフに告ぐ」を読むといつも両親の戦争体験とダブらせてしまいます。手塚先生のお父様も出征されていたそうですが、当時こんな体験をした日本人はたくさんおられたでしょう。「アドルフに告ぐ」で手塚先生は、戦争の悲惨さと正義の名のもとに戦争に走った人間の本当の恐ろしさを描きたかったのだと思います。

 

『紙の砦』を歩く ~仁川一里山健民修練所跡

きっかけは5月に豊中で行われた手塚関連イベントでした。たまたま隣席になった方に私は声をかけました。
「三島佑一さんですよね?」
北野高校で行われる六稜トークリレーで度々お見かけしていたからでした。三島さんは、手塚先生と同じく北野中学出身で、一年後輩の60期。当時の戦争体験を綴った『昭和の戦争と少年少女の日記』を出版されていらっしゃいます。三島さんの著書の中に登場するのが仁川の一里山健民修練所です。昭和19年8月3日から1ヶ月間、北野中学から50人と堺中学(現三国丘高校)から50人の生徒が体力増強の訓練のために連れて来られました。

仁川一里山健民修練所は、手塚先生の戦争体験を描いた『紙の砦』で教官ににらまれた生徒が送られる「特殊訓練所」として描かれています。一日中規律に縛られた生活に粗末な食事。『ガラスの地球を救え』では修練所の生活に耐えられずに、夜中に抜け出して宝塚の自宅まで戻ってお腹いっぱいご飯を食べてまた修練所まで戻ったと綴られています。この一里山健民修練所で、手塚先生は糜爛性白癬症(水虫の一種)に罹り、1週間か10日くらいで治療のため自宅に戻ることになりました。一時は腕を切断する寸前まで病気が悪化したため、一里山健民修練所は、手塚先生にとって全く良い思い出の無い場所だったのでしょう。
豊中でのイベント終了後、私は三島さんを追いかけました。
「仁川の一里山健民修練所跡、ぜひ行ってみたいんですが…。」
たまたま出会った偶然に「また今度」なんてあり得ません。
「じゃあ、今から行きましょうか?」
電車の中で三島さんは北野中学時代の思い出を語って下さいました。「マントク」というあだ名の厳しい教官がいて、これは「万年特務曹長」の意味。威張り散らしていても出世できない軍人だという生徒達の揶揄だったそうです。

阪急電車

のどかな日和の中、マルーン色の阪急電車に乗り、手塚先生のふるさと・宝塚へ。そこから今津線に乗り換え、仁川駅で下車。三島さんも仁川に降り立ったのは修練所時代以来、実に67年ぶりだったそうです。

仁川

土地には記憶というものがあります。歴史の積み重ねの中で、塗り替えられて街は一変しても、川や樹がその道しるべになります。地図もアテもなく、三島さんの記憶だけを頼りに、仁川沿いにひたすら東へ。一里山健民修練所跡は、その名から西宮市一里山町であろうことは推測しておりました。そして、その場所の手がかりとなったのは、土地の経緯から考えて今も公共施設が建っているであろう、ということでした。

一里山健民修練所

大阪府一里山健民修練所
後列右から2番目が三島佑一さん
(『昭和の戦争と少年少女の日記』より)

一里山荘

「ああ。たぶん、ここですわ。」
現在は「一里山荘」という老人ホームになっていました。施設のまわりをぐるっと一周し、すぐ裏にあった喫茶店へ。地元の方らしいマダムに尋ねてみるも、さすがに健民修練所のことは知らず。でもこんなことを話して下さいました。
「一里山という地名は宝塚市と西宮市の中心点からちょうど一里ずつの場所にあるという意味なんですよ。」

三島さんの疑問は、夜に修練所を脱走し、宝塚の自宅まで帰ってまたその日中に修練所まで戻れたのか?ということでした。それもまた手塚先生の創作だったのかな、とも思います。今は穏やかでハイソな街並みの仁川を歩くと、手塚先生の辛い記憶もまたひとつの風景として心に沁み入るのでした。

三島祐一さん