『紙の砦』を歩く ~仁川一里山健民修練所跡

きっかけは5月に豊中で行われた手塚関連イベントでした。たまたま隣席になった方に私は声をかけました。
「三島佑一さんですよね?」
北野高校で行われる六稜トークリレーで度々お見かけしていたからでした。三島さんは、手塚先生と同じく北野中学出身で、一年後輩の60期。当時の戦争体験を綴った『昭和の戦争と少年少女の日記』を出版されていらっしゃいます。三島さんの著書の中に登場するのが仁川の一里山健民修練所です。昭和19年8月3日から1ヶ月間、北野中学から50人と堺中学(現三国丘高校)から50人の生徒が体力増強の訓練のために連れて来られました。

仁川一里山健民修練所は、手塚先生の戦争体験を描いた『紙の砦』で教官ににらまれた生徒が送られる「特殊訓練所」として描かれています。一日中規律に縛られた生活に粗末な食事。『ガラスの地球を救え』では修練所の生活に耐えられずに、夜中に抜け出して宝塚の自宅まで戻ってお腹いっぱいご飯を食べてまた修練所まで戻ったと綴られています。この一里山健民修練所で、手塚先生は糜爛性白癬症(水虫の一種)に罹り、1週間か10日くらいで治療のため自宅に戻ることになりました。一時は腕を切断する寸前まで病気が悪化したため、一里山健民修練所は、手塚先生にとって全く良い思い出の無い場所だったのでしょう。
豊中でのイベント終了後、私は三島さんを追いかけました。
「仁川の一里山健民修練所跡、ぜひ行ってみたいんですが…。」
たまたま出会った偶然に「また今度」なんてあり得ません。
「じゃあ、今から行きましょうか?」
電車の中で三島さんは北野中学時代の思い出を語って下さいました。「マントク」というあだ名の厳しい教官がいて、これは「万年特務曹長」の意味。威張り散らしていても出世できない軍人だという生徒達の揶揄だったそうです。

阪急電車

のどかな日和の中、マルーン色の阪急電車に乗り、手塚先生のふるさと・宝塚へ。そこから今津線に乗り換え、仁川駅で下車。三島さんも仁川に降り立ったのは修練所時代以来、実に67年ぶりだったそうです。

仁川

土地には記憶というものがあります。歴史の積み重ねの中で、塗り替えられて街は一変しても、川や樹がその道しるべになります。地図もアテもなく、三島さんの記憶だけを頼りに、仁川沿いにひたすら東へ。一里山健民修練所跡は、その名から西宮市一里山町であろうことは推測しておりました。そして、その場所の手がかりとなったのは、土地の経緯から考えて今も公共施設が建っているであろう、ということでした。

一里山健民修練所

大阪府一里山健民修練所
後列右から2番目が三島佑一さん
(『昭和の戦争と少年少女の日記』より)

一里山荘

「ああ。たぶん、ここですわ。」
現在は「一里山荘」という老人ホームになっていました。施設のまわりをぐるっと一周し、すぐ裏にあった喫茶店へ。地元の方らしいマダムに尋ねてみるも、さすがに健民修練所のことは知らず。でもこんなことを話して下さいました。
「一里山という地名は宝塚市と西宮市の中心点からちょうど一里ずつの場所にあるという意味なんですよ。」

三島さんの疑問は、夜に修練所を脱走し、宝塚の自宅まで帰ってまたその日中に修練所まで戻れたのか?ということでした。それもまた手塚先生の創作だったのかな、とも思います。今は穏やかでハイソな街並みの仁川を歩くと、手塚先生の辛い記憶もまたひとつの風景として心に沁み入るのでした。

三島祐一さん