5月12日の朝日新聞土曜版beの6~7面「みちものがたり」に、宝塚の手塚治虫ゆかりの地の特集記事が掲載されました!3月に、手塚先生の弟の手塚浩さんとの取材に同行し、旧手塚邸、瓢箪池、蛇神社、千吉稲荷など、宝塚の御殿山界隈をめぐりました。手塚浩さんは少年のような目をして嬉々として「オサム兄貴」との思い出を語って下さいました。
記事では高台から宝塚の街を一望できる場所で撮影した手塚浩さんの写真が掲載されています。メイン写真は、手塚兄弟が「猫神社」と呼んだ千吉稲荷神社。田圃のあぜ道の先にこんもりとした緑の山の中に現れる赤い鳥居がアクセント。
拙著『親友が語る手塚治虫の少年時代』も書影入りで紹介されています。私のコメントとして宝塚時代の影響の作品の代表例「ゼフィルス」を挙げました。「宝塚で育んだ昆虫愛とともにささやかな暮らしが奪われる戦争の不条理が描かれています」
中野晴行さんの著書『手塚治虫のタカラヅカ』の引用とコメント、藤子不二雄Aさん(安孫子素雄さん)の「新寶島」「マアチャンの日記帳」へのコメントも。
実は5月12日は『親友が語る手塚治虫の少年時代』が発売された記念日です。一年前の今日、初めて自分の名前の本が全国の書店に並びました。そして、その発売記念日に朝日新聞に紹介記事が掲載されたのもまた何かのご縁かと思います。
(みちのものがたり)手塚治虫を育んだみち 兵庫県宝塚市 蝶にこがれたマンガの神様
2018年5月12日03時30分
朝日新聞社に無断で転載することを禁じる 承諾番号:18-2363
梢(こずえ)の葉を通して、日差しが降り注ぐ。閑静な住宅街が広がる兵庫県宝塚市。その高台に、開発からかろうじて逃れた千吉稲荷神社のこんもりした森が残っている。
「オサム兄貴が小学生のころ『クヌギの樹液に蝶(ちょう)やクワガタがたくさん集まっている』と教えてくれた。昆虫採集にとっておきの場所です」
オサム兄貴とは、後に「マンガの神様」と呼ばれる手塚治虫(1928~89)。思い出の一コマを語るのは弟の浩さん(87)だ。
手塚は4歳から約20年間、宝塚大劇場などを見下ろす御殿山で暮らした。自宅近くには緑豊かな山林や田畑が広がり、兄弟が瓢箪(ひょうたん)池と呼んだ池は水を満々とたたえていた。
「この神社で兄貴は大きな猫をみかけて、猫神社と名付けました。蝶が飛ぶ『蝶道』もあって、珍しい蝶を先に捕まえようと、競争に明け暮れたものです」。喧噪(けんそう)からも逃れた鎮守の森は、遠い日の子どもたちの歓声が聞こえてきそうな、懐かしい場所だった。
手塚が昆虫採集に目覚めたのは小学5年生のとき。級友の石原実さん(89)に『原色千種昆蟲圖譜(こんちゅうずふ)』(平山修次郎著)を見せられたのがきっかけだ。自伝『ぼくはマンガ家』で、手塚はこの図鑑との出会いを「ぼくは、俄然(がぜん)昆虫に魅せられてしまった。やがて三度の食事を一度にしてもというぐらい病みつきになり」と述べ、手元に置く「バイブル」の一冊にしていたという。
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自宅の本棚には父親も好きなマンガが200冊並び、空想科学小説や海外文学の本がふんだんに置かれた。浩さんは「そんな環境もマンガを描き、兄貴ならではのストーリーを生み出すバックボーンになったのでしょう」と話す。
教科書やノートの隅にパラパラマンガを描いて遊んでいた手塚は、自作のマンガを回覧して級友を楽しませるようになっていった。虫好きが高じて、ペンネームには本名の「治」に「虫」をつけた。その名が誕生した日のことを級友の大森俊祐さん(故人)は、はっきりと覚えていた。
手塚が教室で図鑑のページをめくり、友人たちがのぞき込んでいるときだった。「オサムシ」という名の虫がいると知ったダジャレ好きなひとりが「それやったら手塚オサムシや」と口にすると、「ほんまや、ぴったりや」と教室がわきたったという。
「手塚君が黒板に、漢字で『命名 手塚治虫』と書きました」「彼はまんざらでもない顔をしながら、ニコニコ……」(証言録『親友が語る手塚治虫の少年時代』から)
旧制中学に上がると、ペン画のマンガも描き始めた。ヒゲオヤジなど、手塚作品の主な登場人物が次々に生み出されたのも中学時代だ。仲間と動物同好会を立ち上げ、昆虫図鑑の編纂(へんさん)にも取り組んだ。
その実物が公開されていると聞き、宝塚市立手塚治虫記念館を訪ねた。
「原色甲蟲(こうちゅう)圖譜」。そんなタイトルがついたノートの左ページには、大小さまざまなクワガタがびっしりと描かれ、右には解説文も。つやもある精密な絵で写真と見まごうばかり。いまにもノソノソとはい出しそうで、抜きんでた画力が伝わってくる。
太平洋戦争真っただ中で、マンガを手にすることさえはばかられた時代。勤労奉仕や勤労動員に追われたが、手塚は隠れてマンガを描き続け、才能を開花させていく。
念願のデビューは、敗戦とともに思いがけない形でやってきた。
■「きらめきや畏れ忘れない」
「マングワノ セカイニモ ヘイワガキマシタヨ。イママデノ センサウチュウノ アラッポイ マングワナンカデハ ナク……」
敗戦の翌年、1946年の元旦。毎日新聞社が発行する少國民新聞の大阪版に、「マァチャンの日記帳」の連載開始を告げるお知らせが、手塚の絵入りで載った。
このとき手塚は17歳。大阪帝国大学付属医学専門部で学んでいた。自伝で「興奮して、夜の明けるのが待ち切れなかった」と回想。駅売りの新聞を求めて何駅もはしごするが手に入らず、大阪市内でようやく買い求め、初めて印刷された自分の絵を見た。
「この道で苦しめられる運命の、きっかけの日であった」と書き、医師ではなく、マンガ家の道に進む引き金にもなったと打ち明けた。
自伝で手塚は、近所に住む毎日新聞社勤務の女性の紹介でデビューが決まったとしている。ところが、マンガ評論家の中野晴行さん(63)の著書『手塚治虫のタカラヅカ』によれば、真相は違う。手塚が編集幹部を父に持つ先輩を訪ね、マンガを新聞に載せてほしいと仲介を頼む。先輩は公私混同になるからと、手塚自らマンガに手紙を添えて新聞社に持ち込むよう助言。その結果、連載が決まった。中野さんは「編集部に才能が認められたのだが、手塚にはずるをしたような後ろめたさが残った。先輩やその父親に迷惑がかかっては、という気づかいもあって自伝の筆を少しだけ曲げたのではないか」と話す。
掲載紙は大阪を中心に北陸から四国までの地域で販売。連載は好評で、1カ月の予定が3カ月・73回に及んだ。
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マァチャンに魅了された小学6年生二人組が富山県にいた。安孫子素雄さん(84)と藤本弘(1933~96)。後に藤子不二雄のペンネームで、「オバケのQ太郎」などを世に送ることになるコンビだ。
藤子不二雄(A)として活躍中の安孫子さんは、『手塚治虫デビュー作品集』への特別寄稿で、「今までの漫画の絵は、古くさく野暮(やぼ)ったく思えた。それほど新鮮で、チャーミングなタッチだった」と振り返る。
翌47年。冒険マンガ『新寶(たから)島』(原作と構成・酒井七馬、作画・手塚治虫)が刊行され、爆発的な人気となった。映画的な表現手法を取り入れ、その後のマンガに大きな影響を与えたとされる作品だ。だが、安孫子さんは同じ寄稿で、「『新宝島』が戦後の日本の漫画史で極めてエポックメーキングな役割を果たしたのは事実であるが、実はそのプロローグが『マァチャンの日記帳』だった」と記した。
マンガに囲まれ、宝塚歌劇に親しみ、自然にふれた幼少期から、戦火をくぐり抜けてデビューを果たすまで過ごした宝塚は、手塚作品の舞台にもなった。ゆかりの地を取材してウェブサイト「虫マップ」で紹介している田浦紀子さん(39)は、代表例として「ゼフィルス」(71年)を挙げる。
戦時下、裏山でゼフィルスと呼ばれる蝶を血眼になって追いかける中学生の物語。最後にその森はB29の爆撃によって焼失してしまう。「宝塚で育んだ昆虫愛とともにささやかな暮らしが奪われる戦争の不条理が描かれています」
弟の浩さんは、「感受性の豊かだったオサム兄貴は、野山で目の当たりにした大自然のできごとを通して、生命の神秘を感じ取り、敬虔(けいけん)な気持ちを育んでいたのかも知れませんね」という。
手塚はテレビインタビューでこんな言葉を残している。
「少年の日、その目に映ったきらめきや畏(おそ)れを今も決して忘れない」
虫取り網を手に夢中になって駆け回った御殿山に、マンガの神様の原点があった。
(文・進藤健一 写真・筋野健太)
■今回の道
戦前~戦中の兵庫県宝塚市の雑木林にはタヌキやキツネがすみ、昆虫の宝庫だった。宝塚少女歌劇が創設され、モダンなレビューの街ともなっていった。
中学時代の手塚治虫が昆虫採集の記録をつづった「昆虫手帳」には、主な採集地を独自の呼び名で記している。地元の野山は住宅地に変わったが、「猫神社」や「瓢箪池」などが当時の様子をとどめ、手塚が大好きな蝶を追いかけた道の痕跡もたどれる。
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マンガ文化に大きな足跡を残した手塚の業績を記念する手塚治虫文化賞(朝日新聞社主催、宝塚市など後援)。2018年(第22回)のマンガ大賞には野田サトルさんの『ゴールデンカムイ』が選ばれた。贈呈式が6月7日、東京・浜離宮朝日ホールである。
■ぶらり
宝塚散策の起点はJR宝塚駅と阪急宝塚駅。宝塚大劇場に続く「花のみち」を歩き、資料や映像で手塚ワールドを満喫できる宝塚市立手塚治虫記念館(電話0797・81・2970、大人700円~小学生100円、水曜休館)=写真=へ。少年期の宝塚のジオラマ展示で往時をイメージし、「昆虫手帳」をもとに作製した「たからづかワンダーマップ」をもらって、手塚ゆかりの地にいざ出発! JR宝塚駅東側の踏切を北へ渡り、道なりに坂を上ると、10分ほどでマンションが正面に立ちはだかる三差路に。その手前を右に折れればクスノキの大木=写真=が目印の旧手塚邸だ。手塚作品「新・聊斎志異(りょうさいしい) 女郎蜘蛛(じょろうぐも)」では、このクスノキの精が現れ、伐採を思いとどまらせる。隣にはタカラヅカの大スターだった天津乙女、雲野かよ子姉妹が住んでいたという。
三差路を逆に西進して、しばらく歩くと右手に田んぼが見える。奥にある赤い鳥居が、手塚兄弟が昆虫採集に明け暮れた「猫神社」(千吉稲荷神社)だ。
再び旧手塚邸に戻り、左に曲がって坂道を上り、右に折れた先からは市街地を一望できる。「昔は雑木林で蝶の通り道でした」と弟の手塚浩さん=写真。北に進むと手塚が瓢箪池と呼んでいた下ノ池。道を隔てた御殿山公園も、かつては池だった。北上すると、短編「モンモン山が泣いてるよ」の舞台「蛇神社」だ。
■読む
『親友が語る手塚治虫の少年時代』(和泉書院、税込み1890円)=写真=は、ともに学び、戦争をくぐり抜け、生き抜いてきた仲間たちの証言録。編著者は「虫マップ―手塚治虫ゆかりの地を訪ねて―」をネットで公開している田浦紀子さん、高坂史章さん姉弟。
■味わう
阪急宝塚駅前の和菓子店「きねや」には、乙女餅を食べるアトムのイラスト=写真=が飾られている。宝塚歌劇の乙女にあやかって売り出された。短冊に切った求肥(ぎゅうひ)に黄な粉をまぶした餅でほんのり甘い。10個入り税込み1150円。
■読者へのおみやげ
手塚治虫記念館で購入した「リボンの騎士」のクリアファイルとストラップをセットで10人に。住所・氏名・年齢・「12日」を明記し、〒119・0378 晴海郵便局留め、朝日新聞be「みち」係へ。17日の消印まで有効です。
◆次回は、西田幾多郎が若き日に過ごした山口県の「哲学の道」の原風景をたどります。