【開催レポート】西宮市「宮水学園」の講義を修了しました。

9月27日は、西宮市「宮水学園」の講義「手塚治虫が描いた過去、現代、未来」の最終回でした。10回連続の講義で手塚治虫について語るシルバー大学のお仕事だったのですが、何よりも私自身が手塚漫画とその背景となる知識を学ぶ機会となりました。人に何かを伝える仕事というのは、自分自身がよく理解出来ていないと出来ないことだからです。

最終講義のテーマは「手塚治虫が遺作にこめた思い『ネオ・ファウスト』『青いブリンク』」だったのですが、準備に七転八倒しました。私の中で最も好きになれない手塚作品が『ネオ・ファウスト』であり、正直、何度読んでも破滅的な救いのないこの作品は好きになれません。『ネオ・ファウスト』を取り上げるにあたって、手塚治虫がゲーテ作品に傾倒した背景を取り上げなければならず、原典のゲーテの『ファウスト』もやっぱり読むのがしんどくなる作品です。
未完となったラストシーン…精神病院に収監されているまり子を第一が置き去りににしてメフィストに手を引かれていくシーンは、ゲーテ版でマルガレーテを牢獄に置き去りにするファウストと同じ展開を辿ります。

『ネオ・ファウスト』は手塚先生のバイオテクノロジーに対する警鐘がメッセージとして込められた作品で、この後、一ノ関第一がクローン人間を作って地球が破壊されてしまう、という破滅的な展開が手塚先生の構想としてありました。
未完の作品ではありますが、手塚先生の中ではこの作品に対する結論めいたものは、最初から出ていたような気がします。

『ネオ・ファウスト』の悪魔は、『火の鳥』…永遠の生命体=「神に近いもの」と対照的なものです。生命を司るものが神であるならば、人間が生命を司ることは、悪魔の領域に踏み込むことだ、という考えがこの『ネオ・ファウスト』のテーマだったと思うのです。

そしてこのテーマは裏を返せば『ブラック・ジャック』「ときには真珠のように」のラストで本間丈太郎先生が語る「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんておこがましいと思わんかね」という台詞に繋がるものだと思います。

『火の鳥・未来編』でも手塚先生はゲーテの詩を効果的に引用しています。荒廃した世界で生命を作りたいという猿田博士の願いが無常にも打ち砕かれる…人工人間のブライトベリィが人工羊水から出た途端、人工細胞が崩れて死んでしまうシーンで、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』の一節がが引用されています。

一方『青いブリンク』は…私の中で最も好きなアニメでありながら、最も人に伝えるのが難しい作品だと感じました。講義では冒頭と最後の10分ほどでその世界観を伝えることになったわけですが、いったい1989年のNHKアニメ放送当時、『青いブリンク』にこめられた、手塚先生の企画意図を理解できた人がどのくらいいたでしょうか?
最終回で、グロス皇帝の正体が、カケルの父親の四季春彦と同一人物であることが判明しますが「グロス皇帝は私の悪い心の表れ」という春彦の台詞でその意味を視聴者である子ども達が理解できたでしょうか?

手塚先生は遺稿の中で「青いブリンク構成」としてこのように書いています。
「グロス皇帝の正体が最終話で暴露される。グロスの仮面の下はなんと四季春彦その人自身なのだ。つまり、四季春彦はつねに自分自身と闘い、自分と対決していたのだ。グロス皇帝は自分のマイナスの部分であった。自分のアイデアを片っ端から自分の作品に組みこもうとする春彦の心と、それを抑圧する―否定するもうひとつの自分がグロスだったのだ(作家ならだれしも持っている心)
(中略)
作家の心はつねにグロス的な抑制力が―妥協が働いている。だからこそ作品は平板な、あたりまえのものになってしまう。いうなれば安易な駄作である。
春彦はそこでグロスと対決せねばならなくなる。
もうおわかりと思うが、カケルのとびこんだ夢の世界は―実は父の心の世界だったのだ。
カケルは父の心の中を旅していたのだ。
Innerspaceである。」
『手塚治虫シナリオ集成1981-1989』(立東舎)より

すなわち『青いブリンク』は自己対峙の物語であり、実は人生において闘う相手は他者ではなく常に自分自身である、ということを子供たちに伝えたかったファンタジー作品だったわけです。

最終講義を終えてエネルギー使い果たしたブリンクのように毛玉になった気分ですが、この機会は本当によかったと思います。何よりもこの仕事で、知人友人でも手塚ファンでもない一般層の聴講者に「いかにして手塚治虫を伝えるか」という勉強になりました。