◆インタビュー 松谷孝征さん

―手塚先生と神戸の関わりでは、1981年7月23日、24日に神戸ポートアイランド博覧会のイベント「マンガポートピア」に手塚先生が参加され、そこに松谷社長や手塚悦子さん、手塚るみ子さん、フレデリック・L・ショットさんがご一緒に行かれたそうですね。

横山隆一先生の息子さんの横山隆二さんが漫画関係のイベントを仕切っていて、「マンガ・ポートピア」の話を持って来たんです。その際、何か原稿か企画書を渡したというのは、当時の僕のスケジュール帖に書いてあります。矢口高雄さん、古谷三敏さんなどの漫画家の先生と一緒に手塚が登壇していましたが、僕はチラッとだけ様子を見ました。文字を即座にイラスト化する「替え絵」は手塚がよくやるお遊びですが、1975年の沖縄海洋博覧会で「政府館」を手塚がプロデュースしたんです。その時に、このようなライブイベントをしていました。ショットさんはその頃、ちょうど日本に来ていたのかな。

写真提供:フレデリック・L・ショット

 

―フレデリック・L・ショットさんと手塚先生はどういったご縁なんでしょうか?

ショットさんは、国際基督教大学に留学していた1980年頃に、手塚治虫の『火の鳥』を翻訳したいと言って来たんです。漫画の翻訳から始まって漫画文化全体を理解できるようになったので、手塚治虫が気に入ってお付き合いをするようになりました。日本の漫画文化に精通しているので、アメリカに行った時は毎回ショットさんに通訳をお願いしていました。そのくらい手塚はショットさんを信頼していました。最近では『手塚治虫物語』(伴俊男+手塚プロダクション・朝日新聞社)の翻訳も手がけています。

―神戸にご家族で行かれたのはこの時が最初でしょうか?

ご家族も一緒に行ったのはこの時が最初ですね。その前に神戸のサンテレビ「ふるさと人間記」(1981年1月放送)の取材に私が同行しました。宝塚の手塚家の旧宅のクスノキの前でロケしたりしました。

―『アドルフに告ぐ』の企画はどういったところから生まれたのでしょうか?

『週刊文春』に赤塚不二夫さんが『ギャグゲリラ』を連載していたのですが、その後に手塚治虫の連載を、という話が来ました。物語は全部一人で作ってしまう人なので、僕たちに相談するということはありませんでした。ただ、先生が私に話してくれたのは、戦前戦中戦後と生き抜いてきた中で、「正義とは何か。人それぞれの正義があって立場が違うと考えも変わる。相手を理解して、それが本当に正義なのかよく考えなければならない。そういったことが『アドルフに告ぐ』のテーマだと話していました。

―『アドルフに告ぐ』の資料探しなども松谷さんが手伝われたのですか?

「ドイツの軍服の徽章の写真が欲しい」などの注文がありましたが、だいたいは文藝春秋の池田さんに資料探しのお願いをしていました。今日締め切りだって日に「神戸の海岸線の景色の写真が欲しい。千葉の房総半島に同じような景色があった。」と言われたこともあります。

―松谷さんが手塚先生のマネージャーになられたきっかけを教えてください。

大学卒業後、実業之日本社という出版社に入社して『漫画サンデー』という歴史ある週刊誌の配属になりました。そこでたまたま手塚治虫を担当することになったんです。『レボリューション』と『ペーターキュルテンの記録』(注)。両方とも暗い内容ですよね。25ページと25ページの前後編と、50ページの読み切り。つまり、合計で100ページ手塚治虫の原稿を取れたということは、この時の手塚がよほど暇だったんですよ。当時、虫プロ商事と虫プロダクションの二つの会社が危ない状況で…それは歴史をみればわかりますよね。要は描く気持ちを失するような出来事がたくさんあったんです。

―手塚先生からマネージャーになって欲しいと依頼されたのですか?

当時、二人マネージャーがいたのですが、既に別会社を作って他の仕事をしていました。僕が『漫画サンデー』の原稿を取り終わって手塚の担当を辞めた後、次のマネージャーの話になり、僕の名前が出たらしいです。マネージャーはすごく大変だと聞いていたけれど、でも、それも面白いと思ったんです。まだ若かったから…28歳だったからね。それから44歳まで…手塚が亡くなった平成元年までずっと一緒に過ごしてきました。

―手塚先生と苦楽を共にされたわけですね。

楽はないけど苦だけね(笑)。虫プロ商事と虫プロダクション倒産時には、およそ4~5億円の借金を抱えたけれど、自宅を売り、半分ほど返済の後、『ブラック・ジャック』や『三つ目がとおる』がヒットしたことで調子が出て来て、まだ借金が2、3億円残っていたけれど、あっという間に返済できました。資金もできたので「天下の手塚治虫が借家住まいじゃ肩身が狭いから家を買ってください」と伝えると、手塚は「うーん」とうなるだけ。そこで「事務所を引っ越しますか?」と言うと、即座に「そうしましょう」と返事が返ってきました。当時の事務所は練馬の富士見台にあったのですが、高田馬場のセブンビルの2階を手塚プロが借りたんです。セブンビルに移ったのが1976年で、漫画部が2階にありました。NHK特集「手塚治虫・創作の秘密」(1986年)で手塚の部屋が映っていますが、手塚の部屋が4階に移ったのはしばらく後の話です。

高田馬場・セブンビル4階 奥が手塚治虫の部屋だった。

―当時の手塚プロ漫画部の様子を出雲公三さんが描いて下さいました。

彼らにとっては青春の思い出なんだろうな。あれだけ手塚先生の背中を見て仕事できたわけです。会社の上司と下の人間ってなんとなく隔たりがあったりしますが、そうじゃなくて、先生と一緒に必死になって仕事をしている。酷い時は三班制だったし、富士見台の時代などは、先生とアシスタントが同じ部屋で、ものすごい勢いで仕事していました。

―皆さんそれぞれの人生がありながらも、手塚先生と一緒に仕事をしたことは、本当に輝かしい思い出だなんだろうなと思いました。時を経てもアシスタントの皆さんが繋がっているのは、手塚先生という一人のオーラを持った人がいたからで、それが一生の繋がりになっているのは素晴らしいことですね。

松谷孝征(まつたに・たかゆき)
1944年神奈川県生まれ。1967年、中央大学卒業。1970年、実業之日本社へアルバイト入社、『漫画サンデー』に配属する。その後、嘱託となって手塚治虫を担当。1973年、手塚プロダクション入社、手塚治虫のマネージャーとなる。1985年同社代表取締役社長に就任。手塚治虫原作による数多くのテレビアニメシリーズ、アニメーション映画のプロデューサーを務める。

(注)
『レボリューション』(1973年1月6日+13日号~1月20日号 『漫画サンデー』掲載)
『ペーターキュルテンの記録』(1973年1月10日増刊号 『漫画サンデー』掲載)

 

(2018年9月18日取材 手塚プロダクション本社にて)