登場手塚作品:『紙の砦』
「あかりがついているぞっ。あかりがついていても爆撃されない!!やっぱり終わったんだ」
『紙の砦』のラストシーンで、主人公・大寒鉄郎は大阪のまちの灯かりを見て感動し、戦争が終わったことを実感する。手塚治虫の生涯を取り上げた番組などでよく登場するこのシーンは、手塚治虫自身の体験に基づいている。
昭和20年8月15日。太平洋戦争が終結し、日本は敗戦を迎える。この日のことを手塚治虫はこのように語っている。
ぼくはその夜、自宅の宝塚から、阪急電車に乗って、大阪へでていった。車内はガランとして幽霊電車のようにさみしかった。「あっ、大阪の町に灯りがついている!」ぼくは目を見はった。阪急百貨店のシャンデリアが目もくらむばかりに輝いている。何年ぶりだろう!灯りがついたのは。「ああ、ぼくは生き残ったんだ。幸福だ」これが平和というものなんだ!
(『COM』1968年1月号「ぼくのまんが記 戦後児童まんが史1」)
手塚治虫が終戦の日を迎えた阪急電鉄梅田駅のコンコースは、現在の阪急百貨店うめだ本店の南端に存在した。アーチ状の天井の優美な空間で、コンコースの東西には神話をモチーフにした動物のモザイク壁画が配された。建築家・伊東忠太が手がけたこれらの意匠は、現在、阪急百貨店うめだ本店13階レストラン「シャンデリアテーブル」に移設保存され、当時の空間を再現している。
コンコースの東西の壁画には、中国神話の四神(青龍・朱雀・白虎・玄武)が配される予定であったが、玄武は亀であることから、電鉄会社のモチーフとしてはふさわしくないということで、代わりにギリシア神話よりペガサスが加えられた。「阪急電車の快速と威力」を象徴するものとして、龍・鳳凰・獅子・天馬がガラスモザイクで描かれている。また、壁画中央の「太陽と八咫烏(三本足のカラス)」「月と兎」は、「阪急電車の日夜の運行」を意味する。
手塚治虫はエッセイで終戦の日のエピソードを「阪急百貨店のシャンデリアが目もくらむばかりに輝いている」と語っている。ところが、終戦直後の昭和21(1946)年に撮影された梅田駅の写真を見ると、終戦時にはシャンデリアが存在しなかったことが判る。阪急の社史によると、戦時中は金属回収令によりシャンデリアは供出させられていたそうである。したがって、手塚治虫が灯火管制が解かれた後に見た「灯り」はシャンデリアではなく、小ぶりの照明であったものと推測される。