◆インタビュー 文藝春秋 池田幹生さん 

―佐藤敏章さんが書かれた『神様の伴走者 手塚番13+2』(2010年・小学館)を読んで『アドルフに告ぐ』の担当編集者が池田さんだと知り、ご連絡させていただきました。

佐藤さんは手塚番ではなくて、この時はフリーな立場でご自身で企画して小学館からこの本を出版したんです。小学館の『ビッグコミック』で『陽だまりの樹』を連載していたときは、長崎尚志さんがデスクでした。なので『陽だまりの樹』の適塾などの写真は長崎さんが撮ったと聞きました。直担との間で何かトラブルが起こると手塚先生はすぐに長崎さんを呼んで…そんな時代でしたね。
1984年3月に『陽だまりの樹』で小学館漫画賞を受賞したんですが、『アドルフに告ぐ』の原稿が遅れていたんです。で、手塚先生が授賞式でホテルに行くというので、「うちの原稿をどうするんだ?」と長崎さんと取っ組み合いの喧嘩になったこともありました。

―池田さんが『アドルフに告ぐ』を担当するきっかけはどのようなことだったのでしょうか?

僕は1982年に文藝春秋に入社して、週刊誌の事件記者的な仕事を一年間やりました。『アドルフに告ぐ』の初代担当者の岩下仁が柳田邦男さんの『零戦燃ゆ』を並行でやっていて、昼間に会社で姿を見たことがないくらい、どちらも非常に大変だったんです。それで上が見るに見かねて、私が担当になりました。神戸には連載開始前に初代の担当編集者と取材記者がロケに行っています。曽根崎警察のシーンなどは、戦前に建てられた東京の京橋警察署の内部を参考にしました。
『アドルフに告ぐ』は1983年の正月から連載がスタートしましたが、同年4月から1985年3月まで2年間、手塚先生の担当を務めました。その後、営業部に異動になり、連載終了後に出版された『アドルフに告ぐ』の単行本の営業担当者になりました。

―手塚先生とお会いした時の印象はどうでしたか?

手塚先生は、名前に「氏」をつけて呼ぶことが多かったと聞いていたのですが、自分が「池田氏」と呼ばれた時には、「本当に氏っていうんだ」と思いました(笑)。先生から「君は漫画を読みますか?」と尋ねられました。漫画の神様みたいな人だと思っていたのに、すごく若い人にライバル意識を燃やしておられましたね。手塚先生のアトリエは高田馬場のセブンビルの4階にあったのですが、原稿が遅いと催促しに行くわけです。チャイムなんて切れているからドアをドンドン叩いたら、ランニング姿にベレー帽の手塚先生が出てきたりしました。
手塚先生は原稿料のことを随分気にしていました。「手塚先生のページだから」というので、原稿料に相当するような広告料が入っていたのですが、先生は自分の作品のページに広告が入るのが嫌で「それは取ってほしい」と。

―手塚先生の担当で苦労されたことは何ですか?

週刊連載ですから毎週締め切りが来るわけですが、原稿が落ちそうになって、いよいよやばい時に「旧作を載せるか」という話になるんですが、編集部から「お前が何でもいいから書いてもってこいと」まで言われました。だいたい週に二、三日は手塚プロに泊まっていました。会社にいるより手塚プロにいるほうが多かったですね。『アドルフに告ぐ』は毎週10ページと漫画連載としてはイレギュラーなんですよね。本は4の倍数で組むことが多いので、16ページや32ページというのはよくあるのですが、10ページでリズムを作るのが大変だったようです。
当時は小学館の『ビッグコミック』で『陽だまりの樹』、秋田書店の『週刊少年チャンピオン』で『プライム・ローズ』を連載していましたので、どの原稿を優先させるかで常に競争でした。ある時、手塚先生が行方不明になったふりをして高田馬場駅前の大正セントラルホテルの会議室を借りて、そこでうちの原稿を描いてもらいました。小学館の長崎さんが探している前で、手塚プロの古徳さんと「手塚先生どこへ行ったんでしょうね」と小芝居をしたこともありました(笑)。いまだに『週刊少年チャンピオン』の担当者とは付き合いがあります。
手塚番として苦労したのは、とにかく手塚先生を外に出さないで原稿に集中させることでした。映画の試写会に行ってそのまま帰ってこないことがよくあったんです。「先生、試写会に行くのは止めませんがすぐ帰って来てください」と。担当編集者が現場にいないと気を緩めてしまうから常に手塚プロに張り付いていなければいけない。自宅にいるだろうと思って電話しても繋がらない。永遠に話し中。るみ子ちゃんが年頃で長電話するじゃないですか。電話をしても捕まらないから「うちでお金を出すから別回線ひいて下さい」って言ったくらいですが、もちろん断られました。そんな感じで24時間、手塚プロにかかりっきりだったのが苦労でしたね。
二年間ずっと生活の八割が手塚プロだったので、非常に大変でもありましたが、充実した思い出でもあります。後に五木寛之さんの担当になったのですが「君は手塚番だったから何があっても大丈夫だね」って言われました。

―『週刊文春』で『アドルフに告ぐ』の連載が決まった経緯を教えてください。

僕は担当が引き継ぎだったので、ストーリー展開や設定については既に決まっていました。初代の担当者だったらもう少しストーリーなど突っ込んだ話が出来たかもしれません。最初、手塚先生からタクシードライバーの話の提案があったのですが(のちに『ミッドナイト』として『週刊少年チャンピオン』に連載)、「骨太な歴史ものを」と、うちの編集長の白石勝がお願いして、手塚先生から「アドルフ」のテーマをもらいました。『アドルフに告ぐ』の前の1979年に『アドルフ・ヒトラー』(集英社・ジョン・トーランド(著)、永井淳 (翻訳))というノンフィクション作品が発表され、そこでアドルフ・ヒトラーに実はユダヤの血が流れている、という説が書かれていましたが、アイデア自体は手塚先生のオリジナルなのではないかと思います。

―『アドルフに告ぐ』では資料集めに奔走されたそうですね。

週刊誌の記者をやっていましたので、資料探しに関しては手慣れたものです。国会図書館も近いですし、資料収集しやすい環境ではありました。阪神間が舞台の作品なので、阪急電鉄や[そごう]の社史も揃えました。ビジュアル的な資料でないと漫画の参考になりませんから、必要になったのは『毎日グラフ』などの写真誌です。なかでも多用したのは『一億人の昭和史』ですが、これはうちの資料室でも常備していました。著作権もゆるい時代だったので、写真をそのまま漫画のコマの背景に使ったりしました。他には小学館の『昭和の歴史』とかサンケイ出版の『第二次世界大戦ブックス』。日本だけじゃなくて、ヨーロッパ戦線に関する資料も集めました。当時の居留地の少年少女はどういう格好をしていたかを調べるために『日本服装史』などの資料を調べたりもしました。

―『アドルフに告ぐ』の読者の反響はどうでしたか?

連載中は反響が薄くて、僕が一読者のふりをして「読者の声」を自分で書いたりして(笑)。手塚先生は読者の反応を大変気にしていましたので、そういうケアもしないといけませんでした。
でも、熱心な読者はよく読んでいるもので、感想というよりも指摘の投書はありました。上京した本多芳男が大阪に戻るシーンで東京駅の駅舎が描かれていますよね。あの東京駅が、空襲を受けて焼ける前の駅舎のハズなのに、戦後の形だとか。それから「ベルリンのホテルのドアはああやって開けないんじゃないか」とか。

第21章 本多芳男が東京駅に向かうシーンが描かれている。 ©手塚プロダクション

―手塚先生のエピソードで印象に残っていることはありますか?

『アドルフに告ぐ』連載中に、手塚先生が宝塚歌劇を観に行くというので、原稿を描いてもらうために僕も宝塚まで一緒について行ったことがあります。宝塚ホテルに泊まって、先生が歌劇を見て帰ってくるのを捕まえるためにホテルで待機していました。
手塚先生は映画が好きだったのですが、早稲田のパール座でサボって映画を見ていると、前の席にベレー帽が見えて、手塚先生だったことがありました(笑)。手塚先生のアトリエが高田馬場のセブンビルの4階にあったのですが、出入り口が二箇所あって、気づかないで抜けることができちゃうんですね。僕も映画が好きだったので手塚先生とよく映画の話をしました。

―『アドルフに告ぐ』の単行本化の際も池田さんが営業担当になったそうですね。

1985年に最初の単行本をハードカバー版で出版しました。営業部で「初版で1万2千部」というので「それはないだろう、売れなかったら責任を取る」と2万部でスタートしました。単行本が発売されてしばらくして、NHK教育テレビの番組で評論家の川本三郎さんが取り上げてくれました。(NHK教育テレビ「文化ジャーナル」1986年1月17日放送)それで売れ行きに火がついて100万部突破し、最終的には400万部以上売れました。
ハードカバー版の表紙絵をリアルな人物の絵で他の方に描いてもらうのも、手塚先生のアイデアでした。書店で筒井康隆や星真一と同じ場所に置いてもらえないのは悔しい、内容に合わせた大人っぽい装丁の本にしたい、というので、横山明さんというイラストレーターの絵をカバーデザインに採用しました。その後1988年に発売したソフトカバー版では、やはりリアル調の西口司郎さんのイラストを採用しています。西口司郎さんの絵はその後『ブラック・ジャック』のハードカバー版の表紙絵にもなりましたよね。
連載時も担当で、営業でも手塚先生を担当することができたのは、非常に恵まれていたと思います。手塚先生は最初の構想時よりパレスチナのくだりが消化不良になってしまったのを悔しがっていました。カミルが日本からパレスチナに行った経緯が描けなかったですからね。二人のアドルフの対決は、手塚先生が最初から描きたかったラストなのですが、希望を聞いていると、連載が際限なく長くなるわけです。1984年11月に手塚先生が入院したため、3か月休載になりました。うちの編集長が変わって「あと何回かで連載を終わらせよう」という話になました。それで、連載で描ききれなかったシーンを単行本で描き足して完結させる形となりました。
手塚先生は「これで文春の漫画賞取れませんか?」って言っていたのですが、二回同じ人に漫画賞をあげたことがないんです。菊池寛賞をあげたかったですよね。いい作品に巡り合えました。『アドルフに告ぐ』は手塚先生の“白鳥の歌”だと思っています。

池田幹生(いけだ・みきお)
1958年東京都生まれ。早稲田大学文学部卒業後、1982年文藝春秋入社し、『週刊文春』配属になる。1983年~1984年、『アドルフに告ぐ』で手塚治虫を担当。以後営業、『オール讀物』編集部に配属。文藝部などを経て、現在は文春文庫編集部副部長。

(2015年8月5日取材 文藝春秋にて)