◆手塚プロ漫画部座談会

於:ルノアール新宿市役所横店
2018年2月11日
聞き手:田浦紀子

当時の手塚プロ漫画部メンバー(1984年2月25日撮影・写真提供:吉住浩一) 上段左から野村正、坪田文太、木本佳子、吉住浩一、関口武美、山本広志、阿部高明 下段左から井上克義、福田弘幸、手塚治虫、出雲公三

 

上段左から吉住浩一、上野義幸、関口武美  下段左からラウラ藤井、伴俊男

 

伴俊男(ばん・としお)
1953年、京都市生まれ。1974年、手塚プロダクションに手塚治虫のアシスタントとして参加。 雑誌漫画の制作現場のサブ・チーフを務める。『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ユニコ』『シュマリ』『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』『火の鳥』(乱世編、異形編、太陽編)など、多数の手塚漫画の制作に関わった。手塚治虫没後は『アサヒグラフ』に伝記漫画『手塚治虫物語』を連載、1992年、朝日新聞社より刊行。

上野義幸(うえの・よしゆき)
1958年、愛知県生まれ。1980年、手塚プロダクション入社。制作部でアシスタントとして働き始める。この時作った名刺に「手塚治虫最後の弟子」というキャッチフレーズを載せるも、9ヶ月後に後輩アシスタントが4名入社してしまう。『ドン・ドラキュラ』『プライム・ローズ』『七色いんこ』『ユニコ』『火の鳥』『ブッダ』『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』等の制作を手伝う。退職後の1986年、24時間テレビ『銀河探査2100年 ボーダープラネット』に絵コンテ協力として参加。

吉住浩一(よしずみ・こういち)
1965年、東京都生まれ。1983年、手塚プロダクションに入社。漫画制作部に配属され『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』『ブッダ』『火の鳥(太陽編)』などの制作に関わった。独立後、手塚プロ先輩である石坂啓氏のアシスタントを経て『月刊少年マガジン』で漫画家デビュー。『コミックトム』などで連載作品がある。

関口 武美(せきぐち・たけみ)
1961年、群馬県生まれ。1982年、手塚プロダクション入社。手塚治虫のアシスタントとして2年間勤めた後、1984年に独立。児童雑誌や広告媒体で漫画やイラストを描くほか、ゲームなどエンターテインメント分野を中心とする雑誌や書籍の執筆を手がける。2001年以降は、OAインストラクターとして活動開始。併行してWeb制作、DTP作業などを請け負う。現在は国の研究機関に所属し、広報業務を担当している。

ラウラ藤井(Laura Fujii)
イタリア・トリノ生まれ。少女時代に日本アニメに鮮烈な印象を受け、漫画を描きはじめる。大学時代に日本の漫画に触れ、本格的に漫画の勉強するために来日。1988年~1989年まで、手塚治虫の最後のアシスタントを務め『ルードウィヒ・B』『グリンゴ』『ネオ・ファウスト』など晩年の作品の制作に携わる。手塚治虫没後に放送されたNHKアニメ『青いブリンク』の漫画版の新聞連載を手掛ける。

 

高田馬場・セブンビル2階の手塚プロ漫画制作室(写真提供:伴俊男)

『アドルフに告ぐ』制作中の原稿(写真提供:伴俊男)

手塚プロ入社のきっかけ

田浦 手塚プロに入社した年と手塚先生のアシスタントになったきっかけを教えてください。

 1974年から二年間と、1979年から手塚先生が亡くなられた1989年までアシスタントを務めました。京都の高校を卒業して、ほどなく二十歳前後で手塚プロに入社しました。その前に、小室孝太郎さんのアシスタントを務めていました。その流れで手塚プロを紹介してもらいました。
当時の手塚プロは富士見台にある越後屋ビルにあり、男所帯で朝から夜まで年がら年中仕事していました。1階が肉屋で2階が事務所、3階が仕事場で4階が仮眠所でした。お風呂まであったけれど誰も使わないですね。職場の先輩に、あべこうじ、百田保孝、井上大助、甲斐謙二など、後に漫画家になった人がいました。『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』の三作品が同時連載されていた手塚治虫の黄金時代ですね。

上野 僕は高田馬場のセブンビル時代ですが、1980年に入社して三年間、手塚プロにいました。『七色いんこ』『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』などは、いずれも連載の第1回から関わっています。1983年入社の吉住くんと僕がまるまる入れ替わりですね。『週刊少年チャンピオン』連載の『ブラック・ジャック』と『週刊少年マガジン』連載の『三つ目がとおる』にそれぞれ一コマずつ、アシスタントの募集記事が出ていて、300人も面接に来たそうです。その中から選ばれたわけですが、面接を受けた当時はまだ大学3年生だったこともあり、大学を卒業してから手塚プロに入りました。同期に石坂啓、堀田あきお、わたべ淳、高見まこなどがいました。ここに清水文夫と僕が加わって社員5人で仕事をまわしていました。契約社員の伴さん、鈴木和夫さん、チーフの福元一義さんの先輩三人に仕事を教わっていました。

吉住 1983年の夏から1985年の夏まで手塚プロにいました。手塚先生のアシスタントのスタンスは、漫画家として独立するための勉強の期間なので、だいたい二年間在籍した人が多いです。僕はその二年間の約束を忠実に守りました。高校を卒業してすぐの“右も左も解らない”時期に入って、先生に「一番右!一番右!」って怒られました。(注)僕は当時新人だったのであまり大きなコマは描かせてもらえなくて、主力は野村さんと出雲さんでした。同期に、坪田文太山本広志、福田弘幸、木本佳子がいました。
入った頃は『アドルフに告ぐ』の1巻分くらいはストーリーが進んでいました。プロの現場自体が初めてで、一番最初にベルリンオリンピックの見開きページを見せられた時「うわ、こんなの描かなきゃいけないのか」とプレッシャーを感じましたね。

『火の鳥』を17歳の頃に読んで絶対、手塚プロに入りたいって思ったんです。当時、『週刊少年チャンピオン』に『プライム・ローズ』が連載されていて、アシスタント募集の記事を見て応募しました。高校の漫画研究会の友達が「俺、手塚プロに行きたい」って言うから「じゃあ、一緒に応募しよう」って言ったのにその友達は応募しなかった。で、俺だけ受かっちゃった。
『アドルフに告ぐ』と『陽だまりの樹』と『ブッダ』の最後のほうも関わりましたね。当時は『週刊少年チャンピオン』に連載していた作品が低迷期でヒットしなかった(『ブッキラによろしく!』など)。それから単発の読み切りで掲載されていた『ブラック・ジャック』の切り抜きなどの手伝いも少しやりました。B・Jの髪の毛のベタを塗るのも手が震えるくらい緊張しましたね。1985年に手塚プロを辞めた後に『火の鳥(太陽編)』が始まって、外注で少し手伝っていました。

(注)NHK特集「手塚治虫・創作の秘密」(1986年1月10日、総合テレビ放送)で「一番右!一番右!」と手塚先生に怒られていたのが当時の吉住さん。

関口 アシスタントの募集には2回応募しています。1度目は見てもらえるような原稿がまだなくて、『火の鳥(生命編)』の1ページを模写して送りましたが不採用。2度目はその一年後、それなりに完成した32ページの原稿を送ったら採用されました。電報で通知が来てびっくりしたのを覚えています。電話もあったはずなのに。今思うと絵のうまい下手よりも、1本の作品を完成させられる忍耐力のようなものがあるかないか、オリジナルの作品を描こうとする意思があるかないかを第一の基準にしていたのだと思います。入社は1982年5月で、同期に阿部高明、野村正出雲公三がいました。

入社して最初に見た原稿が『七色いんこ』の番外編「タマサブローの大冒険」でした。その次の週に、同じく『週刊少年チャンピオン』に掲載された『ブラック・ジャック』の「過ぎさりし一瞬」にも関わったのですが、これは先生から描き直しの指示があって自分が原稿から切り抜いたB・Jの1コマです。

※『七色いんこ』「タマサブローの大冒険」…『週刊少年チャンピオン』1972年6月4日号掲載。『ブラック・ジャック』「過ぎさりし一瞬」…『週刊少年チャンピオン』1982年6月11日号、6月18日号、6月25日号、7月2日号掲載。

先生は納得がいかないと思ったら、完成間際の原稿でもどんどん描き直すんです。原稿に「カミ」という指示があって、描き直すために原稿を切り抜いて白い紙を当てるんですけど、切り抜いた絵のほうには執着がなくてゴミ箱行きなんです。でも、ファンにとってはまさに宝物ですよね。

僕も吉住くんと同じで、手塚先生に言われた二年間の約束をきっちり守って、1984年の4月で辞めて独立しました。3巻目のエリザが日本に亡命してパン屋のカミルの家に来るあたりまでですね。でも吉住くん同様、その後もちょこちょこ呼んでもらってましたけどね。『ミッドナイト』『ルードウィヒ・B』の初回あたりも手伝った記憶があります。手塚プロがセブンビルを離れて花小金井駅近くの仏壇屋の入ったビルで仕事をしていた時期があって、そこにも行った。あれは新座に移られる直前ですかね。

田浦 ラウラさんはイタリアのご出身で、手塚先生の晩年のアシスタントを務められたそうですね。

ラウラ イタリアでは日本の漫画は本当にわずかしか入っておらず、どちらかというとアニメばかりでした。漫画を描いていたのですが、私の絵が日本的すぎると言われていたので、逆に認めてもらいたいと思って、日本の出版社のフェアに自分の漫画原稿を持って行ったら「日本で漫画を描いてみませんか?」と言われました。でも、漫画の描き方も勉強も足りないと思い、日本語できちんと漫画を描けるようになりたいと思ったんです。それでどこかのアシスタントを務めたいと思っていた時に、講談社の方から手塚先生を紹介されました。

 ちなみに、子供の頃にイタリアで見たアニメはどういうものだった?

ラウラ 『小さなバイキングビッケ』と『アルプスの少女ハイジ』『UFOロボ グレンダイザー』『マジンガーZ』などですね。ストーリー性や強烈な色使いに惹かれました。印象に残ったのは『ベルサイユのばら』です。フランスっぽいけどフランスじゃない、ドロドロした恋愛。そんな日本アニメで育ちましたが、イタリアには日本の漫画が少なかったので、大学生の頃に文通していた下関大学の先生から日本の漫画を送ってもらったんです。忍者の漫画だったのですが、絵でストーリー展開する、説明的でない日本の漫画にすごく興味を持ったんです。

田浦 手塚先生と初めて会ったのはいつですか?

ラウラ 1987年の秋に講談社の方に紹介されて、高田馬場の手塚プロでお会いしました。当時大学生だったので、一旦イタリアに戻って卒業してから日本に戻って来る予定だったんです。手塚先生のアシスタントになったのは本当に成り行きで、その講談社の方から手塚先生と一緒に仕事をしたいのなら、日本に来なさいと。当時、先生のご病気がそれほど深刻だとは知らなかったのですが、少し考えてから日本に来ました。イタリアで漫画を描いてはいたものの、絵のプロではなかったので、福元さんに基礎から教わりました。『ルードウィヒ・B』『グリンゴ』『ネオ・ファウスト』などの作品に関わりましたが、当時はまだ新人だったので、柄など部分的なお手伝いしかしていません。私の下絵の上に福元さんが主線を入れて手塚タッチにまとめたりしていました。でも、『ネオ・ファウスト』のメフィストの服装の提案をして、私のアイデアを採用して下さって嬉しかった記憶があります。手塚先生が亡くなった後もしばらく手塚プロに残り、『青いブリンク』の雑誌連載などを手伝っていました。

 『青いブリンク』の頃、ラウラのことをキララと呼んでいました(笑)。

故・福元一義さん(2014年7月22日 於:喫茶室ルノアール新大久保店)

『アドルフに告ぐ』への意気込み

田浦 チーフアシスタントを務められた福元一義さんの『手塚先生、締め切り過ぎてます!』には、手塚プロ漫画部での様子が細かく書かれています。『アドルフに告ぐ』への意気込みが感じられるエピソードでは、異例の“連載前試写会”として、ベルリンオリンピックの記録映画『民族の祭典』アシスタントの皆で見に行ったそうですね。

 銀座の東和映画の保税上屋(ほぜいうわや)という特別な試写室に通されて見ました。その時、福元さんや関口くんや出雲くんもいました。

関口 たしか12月の始めの頃でしたよね。見終わった後に、銀座の街で福元さんとお茶したのは覚えています。

上野 徹夜明けでいなかったから、僕と野村くんは見ていないんですよ。

 確かに描くための資料として映画を見ることは必要だったんですが、全部のシーンを覚えられるわけじゃないし、要は『アドルフに告ぐ』を描くための気持ちの盛り上げですよね。

田浦 『民族の祭典』は原題が『オリンピア』といって、ヒットラーに才能を見出されたレニ・リーフェンシュタールという女性監督が制作した映画なんですが、『民族の祭典』と続編の『美の祭典』を制作したんですね。40台のカメラでドイツが国の威信をかけて制作して、リレーやハンマー投げ、棒高跳びなどのシーンが収録されているのですが、水泳の前畑秀子選手を応援している「前畑がんばれ」という日本では有名な中継シーンは映画には無いんですよね。

第1章 「前畑がんばれ」のシーン ©手塚プロダクション

 ベルリンオリンピックの中継は、手塚先生が子ども時代に相当興奮したんじゃないでしょうか。同級生の石原実さんが「短波ラジオで聞いた」と言っていましたね。

田浦 『民族の祭典』は映像美としては素晴らしいんですが、レニ・リーフェンシュタールは、ナチスのプロパガンダに関わったことで戦後、バッシングを受けたらしいですね。そういう背景的な知識面も『アドルフに告ぐ』の描写から感じられますね。ニュールンベルクのツェッペリン広場で行われているナチスの党大会の様子が描かれているわけですが、ここで流れている歌のシーン。このドイツ語が何かと思って調べてみたところ、ヨハン・シュトラウス2世の喜劇『こうもり』の一節だったりするんですね。シュトラウス家がユダヤ系なんだけれど、ヒットラーがファンだったためにシュトラウス家の楽曲は例外的に禁止されなかった。それから、次のシーンでヒンデンブルク号が描かれていますが、この後ヒンデンブルク号はアメリカで爆発事故を起こします。(注)この描写はナチス政権の結末を暗示していると思うんですよね。そういった手塚先生の知識の深さが背景から滲み出ていると思います。

第2章 Die Majestät wird anerkannt, Anerkannt rings im Land DirhuldigenNationen ヨハン・シュトラウス2世のオペレッタ「こうもり」の一節。 ©手塚プロダクション

第2章 ナチス党大会で披露されたヒンデンブルク号に熱狂する人々。 ©手塚プロダクション

(注)ヒンデンブルク号爆発事故1937年5月6日にアメリカ合衆国ニュージャージー州のレイクハースト海軍飛行場で発生した、ドイツの硬式飛行船・LZ129 ヒンデンブルク号の爆発・炎上事故。この事故で36名が死亡。以後、安全性に疑問が持たれ、飛行船時代に幕が降ろされるきっかけとなった。

 

『アドルフに告ぐ』の発想

田浦 『アドルフに告ぐ』は締め切りの三週間前に初回の原稿が仕上がっていたくらい、手塚先生の意気込みが感じられますが、まず、『アドルフに告ぐ』はどういった発想から描かれたのでしょうか?

 例えば「これはアドルフと呼ばれた三人の男達の物語である」という書き出しのフレーズは、まさに五木寛之の小説ですよね。『アドルフに告ぐ』の連載の少し前に、五木寛之の『戒厳令の夜』という小説がベストセラーになっていて、その始まりが「その年、四人のパブロが死んだ」というものでした。謎めいた始まりですごく興味を惹かれました。当時のミステリーの流行を上手く取り入れてしまうところが手塚先生ですよね。「R・W」をキーワードにしてリヒャルト・ワグナーと結び付けたりするような伏線の張り方などもさすがだと思います。

田浦 講談社手塚治虫漫画全集の「あとがきにかえて」で、手塚先生は「僕の話の作り方は三大噺を手本として考えたもので、まるっきりバラバラのテーマをくっつけて一つの話を作っていくんです。」と語っていますね。ヒットラーにユダヤ人の血が入っているという設定、国際スパイ・ゾルゲ事件、そして神戸を舞台にした主人公の二人のアドルフの対峙のストーリー…これらを巧妙にかけあわせています。いろいろなところからアイデアを集めてきて消化して自分なりの世界観をつくるのが非常に上手いですね。手塚先生のインタビュー記事「著者に聞く」によると、最初はゾルゲを主人公にと考えていたそうですね。ストーリー上では本多芳男や小城先生が関わっている共産党グループの一斉摘発に繋がったりして、作品の裏テーマに「ゾルゲ事件」があると思うんですよね。

上野 尾崎秀実(おざきほつみ)の弟の尾崎秀樹(おざきほつき)さんと手塚先生が知り合いだったので、『アドルフに告ぐ』を描くにあたって尾崎さんから資料をもらったりしたそうですよ。

田浦 リヒャルト・ゾルゲは、ロシア人の母親とドイツ人の父親を持つ混血なんです。父親からドイツ人としての誇りと愛国心を教えられるものの、第一次世界大戦で負傷したことで戦争の無意味さを実感したそうです。その後ドイツの新聞記者という肩書を得て日本で諜報活動をするわけですが、戦争で傷ついてそこで見たものがきっかけになって、共産主義に傾倒していった。たぶん、手塚先生がゾルゲに共感したのはそこだと思うんです。ゾルゲの背景的なことを調べていくと、活動の根底には戦争反対があって、「戦争にならないようにするにはどうしたらよいか」ということが諜報活動していた人たちの中にはあったと思うんですね。でも、時代に負けてしまった人たちがゴマンといてその一人がゾルゲであり尾崎秀実だった、そういったことも手塚先生が『アドルフに告ぐ』で描きたかったことのひとつだと思うんです。

 今、話を聞いてすごく納得しました。ゾルゲはそういう複雑な背景を持った人物だったんですね。ロシア人なのかドイツ人なのか、そういう境界的にいるような複雑な人物って手塚先生好きですよね。

田浦 アドルフ・カウフマンもそうですよね。日本人を否定しながらもやっぱりドイツから故郷の日本に帰ってきてしまう。自己は何者なのかを見失いそうな主人公は多い気がします。『ジャングル大帝』のレオ、『メトロポリス』のミッチイ、『鉄腕アトム』のアトムもそうですよね。

第25章 ゾルゲ事件 ©手塚プロダクション

 

『アドルフに告ぐ』制作の現場

田浦 『アドルフに告ぐ』の参考資料の多さは『ブッダ』と双璧をなす、と福元さんが書いていますね。また、文藝春秋の池田さんが資料探しにかけては他社に抜きんでているとおっしゃっていて、手塚先生からこういう資料が欲しいと指示があれば探して渡していたそうですね。

吉住 毎日新聞社の『一億人の昭和史』は、ガイドブック的に使っていました。

 日中戦争の「漢口陥落」と書かれた提灯を作っているシーン、これは『一億人の昭和史』2巻の写真をもとに僕が描きました。

上野 「漢口陥落」の下のコマの背景は阿部高明くんだと思います。彼は劇画系のところにいたから…こういった大胆なベタ入れは彼の特徴です。手前の群衆は手塚先生ですね。

第7章 満州事変中、最大の会戦となった武漢攻略。1938年10月27日漢口が陥落した。国内は勝報に湧き、提灯屋は「祝戦勝」提灯50万個の注文に大忙し。(毎日新聞社『一億人の昭和史2』より) ©手塚プロダクション

田浦 真珠湾攻撃などは『一億人の昭和史』4巻と全く同じアングルで描かれていますが、この絵は描いた記憶ありますか?

吉住 いや~そんな大胆な絵は…僕はまだ当時新人だったから大きなコマは描かせてもらっていないです。

関口 この真珠湾攻撃のシーンは連載後の描き足しですよ。『週刊文春』での連載は毎回10ページだから、このように大きいコマは単行本化の際に後で原稿を切って描き足すんです。

田浦 ご自身が描かれたページはどこか解りますか?

吉住 『アドルフに告ぐ』じゃないけど、『陽だまりの樹』で夜明けのシーンの屋根が連なっているのを描いてそこに手塚先生が「コケコッコー」って描き文字で足したのを見た時、超感動しました。

『陽だまりの樹』第33章 東京大学事始め 吉住さんが描いた屋根の上に手塚先生が「コケコッコー」という描き文字を加えた。 ©手塚プロダクション

上野 ニュールンベルクでナチスの高官の邸宅に車で向かうシーン。ここは僕が描きました。次の頁の背景の額縁は全部僕ですね。だけど、額の中の人物は手塚先生。基本的に額は真っ白で指定が出て先生の興が乗れば自分で描くという感じでした。

第2章 上野さんが手がけたニュールンベルクの高官の自宅に向かうシーン。 ©手塚プロダクション

第2章 額は上野さん、中の人物は手塚先生。 ©手塚プロダクション

吉住 伴さんなんかいっぱい描いているんじゃないですか?

 と思うんだけど、1ページにいろんな人の手が入っているし、たくさん描いても自分の絵という気がしないから忘れちゃうんですよね。こういう空のメビウスの雲は後で他の人が描き足しています。

第6章 メビウスの雲の例 ©手塚プロダクション

吉住 絵を記号的に描くよう教えられました。手塚先生の原稿はベタや“指定記号”など細かい指示がありました。

関口 あと、使うか使わないかわからないけどとりあえず描いてって指示もありました。

 夜なんか特にそういうことありましたね。でもだいたい使われているよね。

田浦 描いたパーツをストックしておいてパズルのように組み合わせていくということですか。野村さんにどこを描いたか尋ねた時、住吉川のシーンで川は描いていないけれど車は自分が描いたとおっしゃっていました。

 そういう切り貼りは手塚先生のやり方でよくあります。

田浦 カウフマン邸などはゲラを見てアシスタントの方が描かれていたんですよね?

 カウフマン邸など共通の設定資料を福元さんが作って、それを見ながら描くんです。

田浦 カウフマン邸は、外観は風見鶏の館、内装は萌黄の館がモデルとなっていますが、アドルフがお父さんに怒られるシーンは萌黄の館のテラスそっくりですね。このシーンはどなたが描かれたか解りますか?

 福元さんじゃないかな。福元さんは全体的に原稿に目を通しています。

吉住 このカウフマン邸の初出シーンは、下描きはベテランの人が描いてペン入れは坪田さんじゃないかな。

上野 カウフマン邸の右隣の2コマは手塚先生です。俯瞰ではないけど目線が高いアングル。こういう大胆な絵は手塚先生でないと描けない。

第3章 カウフマン邸の初出ページ。右下の2コマは手塚先生が描いたと思われる。 ©手塚プロダクション

田浦 野村さんがアシスタントは資料を見て忠実に描くことはできても線を省略するのが難しいとおっしゃっていました。

吉住 直線を真っ直ぐに描くと怒られるんですよ。

上野 手塚先生以外の絵を探すって面白いね(笑)。

 人物は全部手塚先生ですよ。

田浦 神戸の三宮駅界隈のシーンは頻出するのですが、描かれた記憶ありますか?

吉住 神戸空襲で焼け残ったそごう神戸店は僕が描きました。

第33章 焼け残ったそごう神戸店 ©手塚プロダクション

関口 この国鉄三ノ宮駅はたぶん私ですね。いま見て思い出した。手前の電信柱はたぶん別の人です。さっき伴さんが言ったように、1ページどころか1コマにいろんな人の手が入ってきちゃうと、わかんなくなっちゃいますね。でも今見返してみて、自分の絵も意外と使ってもらえていたんだなーと(笑)。

第5章 阪神大水害後の国鉄三ノ宮駅。 ©手塚プロダクション

省線三ノ宮駅付近(昭和12年頃) 写真提供:神戸アーカイブ写真館

田浦 三宮駅や神戸駅のシーンで描かれている地下道と繋ぐ出入り口は、今、一箇所だけ残っていて戦争遺跡として紹介されたりしています。三宮駅といえば『東京昭和十一年 桑原甲子雄写真集』(晶文社・1974年)の上野駅の改札は『アドルフに告ぐ』で峠草平が赤羽警部の追手を振り切って逃げるシーンの阪神三宮駅の改札の形と同じですね。

 この写真は上野駅だけど、こういう形の駅の改札は当時としては普通だから資料として使ったんでしょうね。

田浦 峠草平が新聞社を解雇されてその日暮らしになるシーンの高架と水路の雰囲気は『東京昭和十一年』の写真からですよね。

 有名な写真集を使う場合は、かなりアレンジすると思うんです。場所は違ってもその時代のイメージの参考資料としてはちょうどよかったと思うんです。

田浦 それから、伴さんが以前言っていた参考資料で「日本地誌」があるのですが、『日本地理体系 第7巻近畿篇』(改造社・昭和4年)には『アドルフに告ぐ』で参考にしたと思われる写真が少なくとも5点掲載されています。エリザが来日するシーンで第三突堤に着岸する船は、野村さんが描かれたそうです。もうひとつ、ゾルゲが来日するシーンの背景に元町界隈の市街地風景が描かれているのですが、この「弧状市街」の空撮写真を参考にして描いたようです。左側のほうは黒く蛇行する川のように描かれているのですが、実はここは川ではなく国鉄の高架なんですよね。

第21章 リヒャルト・ゾルゲ登場シーンで背景に描かれているのは神戸の元町の鳥瞰図。 ©手塚プロダクション

弧状市街『日本地理体系第7巻近畿篇』(改造社・昭和4年)より。神戸元町界隈の空撮写真。左側を縦に帯状に走っているのが国鉄の高架。

上野 このコマを誰が描いたかはわからないけど…ただね、これが川じゃなかったとしても、ここにベタを入れる指定をするのは手塚先生なんですよ。原稿全体で見た時に背景として絵が引き締まるように考えてのことだと思います。

田浦 資料といえば、福元さんの本にも書かれていますが、アドルフ・カウフマンがUボートに乗って日本に帰国するシーンで、手塚先生から「Uボートの全方位から撮った写真や艦内部の写真が欲しい」とリクエストがあって、プラモデルを買って来たというエピソードがありますね。

 吉住くん、Uボートのシーンを描いていた頃は手塚プロにいた?あれはアニメ部の人がプラモデルを買って来てそれを見て描いたんだっけ?

吉住 Uボートのシーンの時、僕はいました。あれは確かアニメ部の人じゃなくて、朝イチで井上克義さんが「Uボート買ってきました!」って言って組み立てて、自分でそのシーンを描いていた記憶があります。伴さんは夜チーフだからいなかったんですよ。

第27章 Uボートのシーン ©手塚プロダクション

田浦 野村さんは船や車や電車など乗り物系が多かったようですね。阪急900系という、神戸⇔大阪間を25分で繋いだ伝説の電車があるのですが、それは野村さんが描かれたそうです。

関口 大阪から福井に向かうこの汽車は私が描いています。

 

『アドルフに告ぐ』の評価

田浦 『アドルフに告ぐ』と同時期に連載されていたのが『陽だまりの樹』で、2週間に一遍締め切りがかち合って、小学館との競争が大変だった、と文藝春秋の池田さんがインタビューで語っていますね。

関口 1984年3月に『陽だまりの樹』で小学館漫画賞を受賞したんですが、『アドルフに告ぐ』の原稿が遅れていたんです。で、手塚先生が授賞式でホテルに行くというので、僕たちがついて行って原稿作業しました。

吉住 『陽だまりの樹』で小学館の漫画賞を取ったから、手塚先生が文藝春秋の池田さんに「申し訳ない!次は文春の漫画賞取るから」って謝っていたのを覚えています(笑)。

田浦 でも、池田さんのインタビュー読むと文藝春秋は同じ人に2回、賞をあげたことが無いから『アドルフに告ぐ』で取れなかったらしいんですよね。

 1975年に『ブッダ』と『動物つれづれ草』で第21回文藝春秋漫画賞を取っているんですよね。

田浦 そう考えたら『陽だまりの樹』が最優先の状況で、でも、『アドルフに告ぐ』は作品としてのクオリティが素晴らしいし、単行本の売り上げは『アドルフに告ぐ』のほうが上なんですよね。『アドルフに告ぐ』の単行本を出版する際、文藝春秋の社内で初版発行部数を1万部と言っていたのを、池田さんが「いくらなんでも少なすぎるから2万にしてください」と押したらしいんですね。でも結果的には累計で400万部以上売れたそうですね。

 NHKで評論家の川本三郎さんが取り上げたんです。手塚先生も出演していました。その番組が火付け役になって『アドルフに告ぐ』が一気に売れました。(NHK教育テレビ「文化ジャーナル」1986年1月17日放送)

田浦 連載当時はあまりに反響がなかったので、池田さんが自分で編集部宛てにファンレターの葉書を書いていたらしいです。

吉住 これ、コミックのコーナーに売っていなくて一般書籍のコーナーに置かれていていたんです。筒井康隆や星新一を意識してこういう装幀にしたそうで、これを真似して『ブラック・ジャック』や『火の鳥』の豪華本が出ました。だからハードカバーの漫画本の先駆けですよね。

田浦 キャラクター設定からして、手塚先生が今までの手塚色をなくすように描いていますよね。二人のアドルフも、それまでのどの手塚キャラにも似ていない。

 だからランプとハムエッグがかえって違和感を感じますよね。

田浦 だってアセチレン・ランプってドイツ人の名前じゃないし(笑)。「ランプ部長」っていいの?みたいな。

 ランプって秘密警察ですごい重要な役回りですよね。なにせヒットラーを暗殺しているんだから。

田浦 私、アセチレン・ランプとかハムエッグなど手塚漫画のスターシステムを理解し始めた作品が『アドルフに告ぐ』だったんですよ。

関口 ええ~!時代を感じますね(笑)。ランプやハムエッグなんか最初は出す予定が無かったんですよね。文藝春秋の池田さんだったかその前任の担当者が「往年の手塚ファンが喜ぶように人気のキャラクターを入れましょう」という意見を言ったんです。

田浦 10ページで大河ドラマを描いていたので、連載中はなかなか入り込むのが難しかったと思うんです。キャラ立ちしていないじゃないですか?例えば「アドルフ・カウフマン、かっこいい」とか“萌え”とかそういう入り方が出来ない。だから読者的にどう入っていったら良いのかわからないんです。なんだけれども、この作品の魅力は何だ?と思った時、特定のキャラクターに入れ込まずに俯瞰的に描かれたことだと思うんです。アドルフ・カウフマンンとアドルフ・カミルの二人は幼い頃に友情を育みながらも最後は殺し合うことを宿命づけられている。最後のほうはカミルも残酷な悪人になってしまう。

 『未来人カオス』も二人の友情の話なんだけど、ラストは希望を与えるような話。でも、逆に『アドルフに告ぐ』はとことん絶望に突き落とすし救いようがないですよね。

田浦 手塚先生が『アドルフに告ぐ』で最終的に描きたかったことは「正義とは何か、正義とは突き詰めたらエゴイズムではないか」というテーマだったと思うんですね。『アドルフに告ぐ』って迷いがないと思うんです。『ブラック・ジャック』や『三つ目がとおる』は後付けのエピソードが多いんですが、『アドルフに告ぐ』は最初から最後まで話が出来た上で迷いなく一気に描けていると思うんです。手塚イズムが顕著に出ていて、本当に手塚治虫の総決算という気がしますね。

ホワイトボードにブラック・ジャックを描く上野さん。