手塚治虫が生涯追い求めた夢・アニメーション。その原点は幼少期に触れたディズニーなど海外の漫画映画である。漫画映画との出会いを手塚治虫は自伝『ぼくはマンガ家』(1962年・毎日新聞社)でこう語っている。
「大阪の朝日会館で、毎年正月に漫画映画大会をやる。それを母に連れられて正月三日に観に行くのが、わが家の恒例であった。ポパイやベティ・ブープものと一緒に当時まだめずらしかったディズニーのカラー漫画ものをやっていた。」
大阪朝日会館は1926 年(大正15 年)に開館し1962 年(昭和37年)に閉館。エジプト式を基調にしたデザインで、金縁のガラス窓に新聞の印刷インクを塗った黒い建物。常に内外の一流の音楽、演劇、映画が上演され、大阪の近
代文化の中心であった。周辺には朝日ビル、中央電気倶楽部、大阪市中央公会堂、ガスビル、ダイビルなどの近代建築が数多く現存することを思うと、ここが大阪の一大文化ゾーンだったことも頷ける。
ただ、手塚治虫自身は朝日会館の建物についてあまり印象に残らなかったのだろうか。エピソードとしてあげているのは、次のようなことである。ディズニーの漫画映画を観に大阪駅からタクシーに乗って朝日会館へ。到着したものの、なんと母親が札入れを忘れ、タクシーの運転手に「一円にまけなさいよ。いいじゃないの、正月だから、ね、運ちゃん」と。旧式な軍人の家庭に育った母の、意外な言葉遣いが幼な心に印象的だったと語っている。また、阪大医專時代、手塚治虫は学生劇団・学友座に所属していた。その学友座の公演も朝日会館で開催されることが多かったそうである。
朝日会館が姿を消したのち、その地には朝日新聞ビルが建てられた。そして、朝日会館の文化事業はのちにフェスティバルホール(新朝日ビルディング)へと引き継がれた。ところで朝日会館の東隣りにあったのが、昭和のモダン建築として有名な朝日ビルディングである。1931年(昭和6 年)竣工のオフィスビルで、設計は竹中工務店の石川純一郎。ステンレス・スチールなどの金属パネルを外装に使用し、最上階に曲面ガラスを使うなど非常に斬新なデザインのビルだった。当時は喫茶室や高級レストラン「アラスカ」があり、手塚家もここで食事をした後に映画を観に行ったとのこと。「アラスカ」は谷崎潤一郎の『細雪』にも登場する老舗である。
現在は、朝日ビルディング、新朝日ビルディング共に建て替えとなり、中之島フェスティバルタワーが誕生している。