◆インタビュー 出雲公三さん

―手塚先生のアシスタントになったきっかけを教えてください。

私は漫画マニアで手塚ファンでもあったのですが、自分が描き手になるとは考えていませんでした。手塚先生のアシスタントに応募したきっかけも、漫画家への夢というより、どちらかというと生活のためでした。当時の漫画家のアシスタントを希望する人の傾向としては、もっと軽いノリのラブコメの流行ものを描くことを希望していました。手塚先生は若い感性の作家からすると少し古いタイプの漫画家でしたので、逆に私のような漫画とは無縁の人間が採用されたのだと今は思っています。手塚プロの入社するきっかけとなったのは、小学館の『ビッグコミック』に連載されていた『陽だまりの樹』のアシスタント募集記事でした。

1982年5月に手塚プロに入社し、同期は関口武美、阿部高明、野村正。入社してしばらくはアシスタントとしては練習段階で、“掛け網”や漫画のコマの枠線を引くところから始めました。その段階を経て、ある程度の水準に達したところから漫画の背景を任されました。

―当時のアシスタントの漫画制作体制について教えてください。

原稿の出具合によって変わるんですね。通常勤務は朝から夕方までですが、仕事がある場合は翌日の人が出社するまでの間(24時間)働いて、そこで交代します。原稿の量にもよりますが、夕方5時半頃が昼班の定時ですが、そのまま居残って翌日の朝まで働く人徹夜組の人もいました。人員が足りなくなると漫画部のOBなどに外注していました。

―『アドルフに告ぐ』でご自身が関わったページを教えてください。

『アドルフに告ぐ』は関西が舞台ですが、阪神電鉄の電車が走るシーンを描きました。僕は四国の香川県出身で、うちの田舎の電車ととても良く似ているなと思いながら電車の絵を描いた記憶があります。

―手塚先生のエピソードで印象に残っていることはありますか?

当時連載していた『プライム・ローズ』で、手塚先生が乗り物のデザインをアシスタントに考えてくれ、と頼んだんです。ところが出来上がったものを先生が気に入らず「この程度のデザインも出来ないのか」と怒っていました。映画の試写会に行く直前だったので、早く原稿から解放されたくてイライラしていたんでしょうね。映画は手塚先生の一番の息抜きで仕事の励みだったんですね。映画の試写会があれば、原稿がすんなり上がりました。

手塚プロのカラー4色原稿の絵の具はサクラマット水彩だったのですが、『ユニコ(小学1年生版)』の時、大阪まで絵の具の箱と筆を2本持って、手塚先生が宿泊している大阪のホテルまで、新幹線に乗って高い交通費を使って届けに行ったことがあります。アシスタントが原稿を取りに来たりすると、なんとなく原稿が進んでいるように見えるから、編集者に対するポーズという理由もあるのですが、手塚先生が分刻みのスケジュールで時間を有効に使えるように、まわりのスタッフが必死になってお膳立てをしていました。

私は外に原稿を取りに行かされることが多かったのですが、ある時「手塚先生が何時に羽田空港に戻ってくる。原稿が何枚か上がっているハズだからそれを取りに行け。」と会社から言われて羽田空港まで先生を迎えに行きました。先生は決して体格は大きくないのですが、その時、空港から出てきた手塚先生が大きく見えました。歩く時の姿勢がよかったのでしょうが、ある種の威信というか、オーラやその人が放つエネルギーのようなものを感じましたね。

(2018年5月30日取材)

 

出雲公三(いずも・こうぞう)

1957年香川県生まれ。1982年から1984年にかけての二年間、手塚プロ漫画制作室に勤務。以後イラストレーターとして活動し今に至る。現在は地方で半農半描の生活。在籍時に関わった先生の主な作品は、『ブッダ』『陽だまりの樹』『ユニコ』『プライム・ローズ』『アドルフに告ぐ』。

出雲さん作画、高田馬場セブンビル2階・手塚プロマンガ制作室の配置図。

 

出雲さん提供、手塚プロマンガ制作室。奥が伴俊男さん。